不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

海泡/樋口有介

海泡 (中公文庫)

海泡 (中公文庫)

 20歳の洋介は、2年ぶりに父が暮らす小笠原の父島に帰って来た。だが帰省早々、同級生の和希が展望台から転落死してしまう。彼女は東京でストーカーの被害に遭っており、しかもそのストーカーは父島に滞在していた。彼女の死は果たして事故だったのか、自殺だったのか、それとも……。
 主人公が東京で大学生をやっている間に、同級生たちの境遇は変化した。漁師となった山尾、旅館を支える洵子は元気だが、美しかった翔子は死の床にあり、島一番の優等生だった藤井は挫折を経て精神を病んでいる。そして和希は先述のように東京でストーキングされ島に逃げ戻っている。既に自分たちの人生が分かれ始めているという冷酷な事実、そこに漂う寂寥感や諦念は、樋口有介が20歳前後の人物を扱う場合の常とはいえ、実に鮮やかだ。
 さて『海泡』で注目したいのは、「死の影」の扱いである。事件によって命を落とす同級生は和希だが、本書において最も色濃い「死の影」は、和希のものではなく、病によって余命幾許もない翔子のそれなのだ。事件の前、つまり和希が死ぬ前から、物語は翔子が纏う死の予感に覆われており、事件発生後も状況にラディカルな変化はない。実際の登場シーンはほとんどなかった和希の死よりも、病床から主人公の調査を助けて積極的に発現する翔子の「死の影」の方が、よりリアルな質感をもって読者に、そして主人公たちにも迫るのである。
 そしてこれらの全てを、小笠原の夏が包む。舞台のローカル色が馥郁たる余情を生み、ゆったりした体感時間と筆致をもって、20歳となり曲がりなりにも「過去」を持ち始めた若者たちのドラマが描出されていく。この雰囲気もまた素晴らしいものだ。ミステリ的な趣向は弱いが、『海泡』もまた要チェックの佳品なのである。