不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

雨の匂い/樋口有介

雨の匂い (中公文庫)

雨の匂い (中公文庫)

 大学生の柊一は、末期癌で入院中の父と寝たきりの祖父の見舞いと看病の傍らアルバイトをこなしていた。そんなある日、塗装工だった祖父の代わりに、柊一は近所の邸宅の土塀を塗装することになる。そこの娘の、女子高生の彩夏がいた。ほぼ同じ頃、柊一は偶然、AV女優李沙と知り合う。やがて、近所で有名なゴミ屋敷で放火事件が起きた……。
 本書は、モラトリアム期の青年が、尊属の衰えと死、謎めいた女性性に直面する物語である。柊一は、これらを通して、モラトリアム期がもう残り少ないこと、そして、自分が接する人にもそれぞれ独自の人生があることを痛感する。注目して欲しいのは特に後者だ。これは、樋口有介が「過去」を描く際の基本姿勢である。本書は若干のバリエーションが効かされているとはいえ、まだその延長線上にあるものと考えて良いだろう。
 そのバリエーションとは、主人公の若者が「過去」の当事者ではないということである。樋口有介は、主人公(柚木シリーズの場合は、事件の主要関係者)に20歳以上の人間を充てる場合、彼ら自身の「過去」と事件を絡めることが多かった。だが今回、主人公の柊一は父母を含めた「他人」の過去と現在を静かに見届ける。主人公は傍観者なのである。そしてこの傍観者は、柚木草平ほどには人生経験がなく、酸いも甘いもかみ分けていない。柊一は感情をほとんど出さないので、眼前で展開される人間ドラマにどのような感慨を抱いているかはわからない。しかし、柚木のような余裕がないことは間違いないのだ。ここに本書最大の特徴がある。
 情景描写が実にかぐわしいということも、作品全体に流れる静謐なイメージを助長する。庭の匂い、女の匂い、病床の匂い、そしてタイトルにある雨の匂い。それは、邂逅と別れに翻弄される柊一の、巧まずして出てしまった感傷的な気分を的確に表している。事物に《和》の雰囲気が強いのも、雰囲気醸出の一助になっている。
 というわけで、本書もまた逸品です。本当にいいなこの作家は。ただし、本書はミステリでは全くない。「人の心こそミステリー」といったレトリックを使わない限り、『雨の匂い』をミステリだと主張するのは不可能である。とはいえ、上述の通り、樋口有介の小説作りは既往作と共通するところが多い。謎解き要素がないからといって、異色作と断ずるのは早計というものだろう。樋口ファンには強くおすすめしておきたい。