不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

木野塚探偵事務所だ/樋口有介

木野塚探偵事務所だ (創元推理文庫(国内M))

木野塚探偵事務所だ (創元推理文庫(国内M))

 60歳の木野塚佐平は、警視庁の経理課に真面目に勤め上げ、この度めでたく退官となった。そして彼は長年温めていた計画、即ち私立探偵になることを実行に移す。愛読するハードボイルドに出て来る探偵たちの、男の浪漫とも呼ぶべき生活を夢見て、早速彼は秘書の募集をおこなうが……。
 精彩を欠く生活に文句も言わず、ひたすら謹厳実直に生きて来た老い始めた男。そんな男の中身は、しかし意外に子供っぽいものである。ハードボイルドの主人公たちのかっこ良さに憧れるのはいいが、彼らの誰もが抱えているはずの《翳り》の部分も一種のファッションとしてしか解釈できていない模様だ。おまけに探偵としての能力も、秘書として雇われる梅谷桃代に大きく遅れを取る始末(ただし、木野塚自身は彼女の思考を自分の薫陶の賜物などと決め込んでおり、自覚はゼロだ)。そんな彼の探偵活動が、非常にお間抜けなものになるのも当然であろう。ここに本書のユーモアがある。読んでいて非常に楽しい。
 しかし、読んでいるとふと思う。《何歳になっても大人になりきれない男》という人物造形を単純に笑い飛ばせる人間が、果たしてこの世に存在するのだろうか。『木野塚探偵事務所だ』という作品全体が主人公に注ぐ視線は、確かに温かい。だがその根底には、紛れもなく、この世のほぼ全ての人間(特に男)が、60歳までに抱え込むことになるであろう《客観的な痛々しさ》がある。可能性が縮小しきった残りの人生を賭けて、木野塚佐平は自覚のないまま道化を続けることになるだろうし、恐らくそれ以外に道はない。大いに笑わせてもらいつつ、そこに開いている深淵にふと恐ろしくなった。