不壊の槍は折られましたが、何か?

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蒸気駆動の少年/ジョン・スラデック

蒸気駆動の少年 [奇想コレクション]

蒸気駆動の少年 [奇想コレクション]

スラデック言語遊戯短編集』に比べれば、難易度が遥かに下がった短編集である。翻訳がマトモなのはやはり大きいし、作品自体、ケリー・リンク程度以上にはストーリーを追えるものが多い。中には非常にわかりやすい作品すら含まれている。「超越のサンドイッチ」は明らかにワンアイデア・ストーリーで、これは恐らく誰もが簡単に読めるはずである。また、《ヘンゼルのグレーテル》の悪意に満ちたパロディ「血とショウガパン」は、グリム童話が結構残酷であることが膾炙している現代では、広く受け容れられるだろう。
 その一方で、スラデックの尖った面は遺憾なく発揮されており、耐性のない読者をあっさり振り捨てる。数々のアイデアが、ジャンクと見紛うばかりにゴタゴタと陳列され小説化される様は、まさにこの作家の面目躍如たるものがある。ときにパズル、ときにギャグ、そして非常にしばしば意味不明であり、気軽にサクサク読むのは非常に難しい。
 だがその中でも、深刻な空気が流れてドキリとすることがある。作者が離婚した直後に書かれたという「最後のクジラバーガー」のどうしようもない寂寥感と諦念。「おとんまたち全員集合!」は、我々成人が持つ現実逃避願望または郷愁を刺し貫いてやまない。また「不安検出書(B式)」も、我々の胸に強烈な不安感の惹起する。猥雑な混沌の一編の小説に、人間スラデックの肉声が聞き取れたり、我々読者の心理反応を綿密に計算した形跡が見られるのだ。もちろん、文理の別を問わず連発されるナンセンスなギャグの数々は、第一に作者の稚気があってのものである。しかし、ふと、意想外に真っ当なもの・不気味なものが出て来てハッとさせられるのだ。言葉で表そうとするとかなり大変だが、確かに《一本の芯》が通っている。これこそがジョン・スラデックの凄さなのだろう。
 今回非常に興味深かった新発見(ただし仮説段階)は、スラデックにとっての本格ミステリは、スラデックが突然変異の所産ではく、結局他の作品と同じノリで書かれているのでは、ということである。カオス極まる作品群の中に名探偵サッカレイ・フィンものの短編が配されたことで、これが非常にわかりやすく見えて来る。たとえば「見えざる手によって」だが、この短編では、本筋に何の関係もない部分が真相の隠喩になっている。本格ミステリ・ファンは普通これを、読者に向けた伏線と捉え、作品に真っ当な秩序をもたらす「ありがちな要素」と捉えるだろう。そして秩序とは最後に出て来る《真相》であり、伏線や隠喩は《真相》の効果を増すための存在でしかない。これらの秩序・序列を異常だと思う人はほとんどいないはずだ。しかし、スラデックの他の作品を読む中でこれを提示されると、真相も伏線も隠喩も、全て等価でしかないと感じられてくる。伏線という事項は、スラデックの作品によくある、「種々雑多な各要素を辛うじて繋ぎ止め、小説としての微弱な統一性を保証する薄過ぎる関連性・象徴性」に過ぎない――そう感じられてしまうのである。サッカレイ・フィンの名探偵然とした振る舞いも同様である。スラデックにとってこれは様式美ではない。ジャンク風味を出すための香辛料そのものではないのか。そんな想念を拭いがたいのである。
 さらに私は、単なる推理クイズでしかない「息をきらして」と、「不安検出書(B式)」あるいは『スラデック言語遊戯短編集』所収の「人間関係ブリッジの図面」を比べて、特に有意差などないではないかとも思う。全てがアイデアだけで成り立っている小説、しかもそのアイデア自体が畸形としか言いようがない。普通はこれだけで小説を書こうとは思わないもんばっかですよ? クイズ・アンケート用紙・図面ですぜ?
 何が言いたいかというと、我々ミステリ・ファンは、本格ミステリの異常性に鈍感になり過ぎてはいないだろうか、ということである。本短編集を「わけがわからん」と拒否する一方で、『見えないグリーン』や『黒い霊気』を真っ当な小説だとして評価するのは一種の矛盾かも知れないということである。まだうまく言葉にできないので、これは今後ゆっくり考えて行きたい。
 とりあえず、『蒸気駆動の少年』のカオスっぷりには一読の価値がある。混沌を頭ごなしに否定しない読者には、強くオススメしておきたい。