不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

兇天使/野阿梓

兇天使 (ハヤカワ文庫JA)

兇天使 (ハヤカワ文庫JA)

「超展開」という言葉がある。広辞苑等には載っていないが、スラングに近い言葉として、冗談めかした会話でよく使われる。ただこの言葉が否定的ニュアンスを帯びていることは否めない。しかし私は今回敢えて、誉め言葉として「超展開」という言葉を『兇天使』に捧げたい。本書は、目くるめく怒涛の如き超展開が、読者を一気に押し流すからである。
 天界にいた熾天使セラフィは上帝により召喚され、ある命を受ける。エーテル界に生じた霊的秩序の歪みの原因を突き止め、矯正せよとのことであった。セラフィは1968年春のニューヨークにそれを見出す。コロンビア大学教授に受肉した美神アフロディテが、北神オーディンとの全面戦争を着々と準備していたのだ。アフロディテは、水の精霊であった娘を悪竜ジラフに殺されたが、ケルト神話の一派によってジラフがかくまわれていると見ていた。しかし異なる種族の神同士の戦争は、下界の全てを破壊し、上帝が支配するアストラル界も含めたエーテル界全てに壊滅的被害が及ぶだろう。これを食い止めるため、セラフィはジラフの探索を開始する……。一方、ホレイシォはハンザ同盟の盟主リューベック市の意を受けて、デンマーク国王の暗殺を計画する。だが国王の息子ハムレット王子とホレイシォは、パリでの在学中、禁断の関係にあった。
 既にお腹いっぱいになりそうだが、恐ろしいことに、これでもまだほんの序の口なのだ。
 アトラスのゲーム・女神転生シリーズを更にスケールアップしたような世界観を背景に、時空すら軽々と飛び越えて、熾天使セラフィが悪竜ジラフを追う! というのが偶数章である。ところが奇数章では、シェイクスピアハムレット』が、近世ヨーロッパの国際政治情勢とホレイシォ総攻めという二つのファクターによって見事かつ強烈に換骨奪胎されるのである。おまけに終盤では『ハムレット』の推理小説的解体さえ為されるのだ。しかしプロットは『ハムレット』に忠実であり、SFまたはファンタジー色は見受けられない。情感面では微妙に響き合う箇所もあるが、偶数章との直接的関連は、従ってなかなか見出せない。《熾天使による悪竜追跡》と『ハムレット』がどのように融合を果たすかが、筋を追う上では興味の焦点であろう。
 とはいえ、冷静さを保って筋という縦糸に主たる関心を抱く読み方は、『兇天使』の前では土台不可能だ。超展開の数々が必ずや読者を翻弄するであろうし、野阿梓が精魂傾けた、美麗と荘厳の極致を行くような文章もまた読者を魅了する。登場人物のほぼ全員が、その目に昏い焔を宿しているのも特徴で、話の雰囲気は終始一貫して暗く重い。あちこちにばらまかれた禁忌のモチーフ(神同士の戦争、同性愛を含めた愛欲、精霊を屠ったジラフの背徳、アサシンの淫靡な影等々)が、本書に耽美と狂熱の両立をもたらしていることも見逃せない。そして「最後には」ではなく「最初から最後まで」、全てが渾然一体となって読者に襲い掛かってくるのである。これに抗う術は、神ならぬ人間には、そして恐らく天使にも、残されているはずがない。
 飛浩隆の帯、大森望の解説は、基本的に本書を誉め倒している。しかしそれらは、美辞麗句でも何でもない。掛け値なし、正確な指摘に過ぎないのである。SF・ファンタジー・ミステリ・パスティーシュ歴史小説・青春小説・オカルト・伝奇小説。それらの全てであって全てでない真の傑作、それが本書『兇天使』なのだ。必読です。