不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

劇場の迷子/戸板康二

 読む順番が逆になってしまったが、本書は中村雅楽探偵全集第四巻である。最終配本の第五巻『松風の記憶』は長編の集成で執筆時期はかなり早い。いわば初期作品群に含まれるというわけだ。一方第一巻から第四巻は短編集成で、初出順に並べられている。よって本書『劇場の迷子』所収の作品が、中村雅楽後期の作品群ということになる。
『劇場の迷子』で印象的なのは、強度なミステリの割合が減り、「ちょっといい話」といった素振りを示す普通小説に近いものが多いということである。しかも中村雅楽が他人のトラブル・シューティングをするばかりではなく、中村雅楽自身の事件と言い得るものもかなり含まれている。全集を通読すると、戸板康二が次第に本格ミステリ固執せず、通常の人情譚をも包含する作品群として、中村雅楽シリーズを捉え始めているのがよくわかる。
 興味深いのは最後の作品となる90年に書かれた「演劇史異聞」である。この作品は実質的には六つのショートショートから成り、「團十郎切腹事件」よろしく過去の演劇における歴史上の謎を解くのだが、江島事件*1写楽など、恐らく歌舞伎に止まらない謎にも大胆に踏み込む。90年当事に江島事件がどれほどメジャーだったかよくわからないが、少なくとも写楽に関しては歌舞伎よりも前面に出した方が世人の目を引くはずである。ところがこのエピソードも小見出しに「七代目市川團十郎」と付するのみで、実際に読まないと写楽絡みの事件であるとはわからなくなっている。あくまで歌舞伎を中心に据える作者の意向が見えるようだ。
 いずれにせよ、本書もまた戸板康二一流の、若干硬質だが簡潔な、まさに日本語の名文といった文章によって、様々な人の業や喜怒哀楽が表出されている。歌舞伎に関する話が大半を占めるとはいえ、やはりそこは人間のすること、我々にも通底する何かが必ず提示されるのだ。戦後日本のミステリ史に名を刻む、名シリーズの一つとして、是非多くの方にこの品格に満ちた作品群を読んで欲しいと思う。

*1:2006年の映画『大奥』は江島事件を扱っているため、ご記憶の方もおられるだろう。