不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

アプターの宝石/サミュエル・R・ディレイニー

 レプターに住む詩人ジオと大男アースンは、四本腕の少年泥棒スネークに出会う。世界にはこういった奇形の人間も結構いるのだ。そしてこの三名は白き女神アーゴの化身の母親を名乗る司祭に出会い、敵国とされる謎に包まれたアプターへ向かうことになる。白き女神アーゴの化身(つまり司祭の娘)はアプターに誘拐されていた。彼女はジオ・アースン・スネークに、アプターの宝石を奪い、娘を取り戻そうとして航海に出る……。
 舞台は恐らく遠未来の地球で、核戦争で文明が一時衰退し、また少しずつ回復しつつある。これを背景に、「善悪とは立場によって変わるものだ」という、掴み所があやふやなテーマが、波乱万丈の冒険物語に乗せられ、絢爛たる文章表現に彩られて展開する。
 某所で法月綸太郎『密閉教室』が中二病であるとの指摘を目にしたのだが、高校生が高校を舞台に(リアルで聞いていると)恥ずかしい言動をとる程度の『密閉教室』で中二病と言っていると、ディレイニーの『アプターの宝石』はどう表現すれば良いのだろうか。《世界》に直接かつ深くかかわる大仰な事件を背景に、深遠そうではあるが陳腐なテーマ、ありがちな性格設定、都合良過ぎる一本道の冒険(主人公たちが巻き込まれる経緯や、国家元首クラスが余りにも身軽に行動しているなど)などが堂々と並べ立てられるのだ。中二病と言われる可能性は『アプターの宝石』の方が遥かに高いのではないか。「こうすれば冒険小説はカッコ良くなるはず」とガキが思いそうな要素がてんこ盛りなのである。おまけに全体のバランスも悪い。よって『アプターの宝石』は、要素のみを取り出すとジャンクばかりであると言って差し支えなかろう。
 しかし荘重にして圧倒的に華麗・象徴的な文章表現が全てのマイナスを吹き飛ばしかけている。本書の魅力はここにある。そして、もっとまとまりが良く、ゆえに象徴劇にまで昇華された後年の作品を数作読んでいる身としては、ディレイニーの魅力の根源自体、結局ここに行き着くのではないかと思われてきた。こう考えると『ダールグレイン』がどうなっているのか、興味も高まろうというものである。