不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

松風の記憶/戸板康二

 読む順番が前後してしまったが、本書は中村雅楽探偵全集最終巻である。他の巻は短編集だが、これのみ長編が2本入っている。
 広島の寺の境内で発見された老人の死体は、歌舞伎俳優・浅尾当次のものだった。当日、寺には関西の修学旅行中の女学生たちがいた。その一人である仲宮ふみ子は、在学中に自らの脚本・主演で舞台に立っていたが、数年後、東京に出て舞踊を学び、当次の長男・当太郎と出会う。
 中村雅楽シリーズといえば、名エッセイストとして鳴らした戸板康二による非常にかっちりとした名文で、ひとのこころが鮮やかに、しかし直接的言及は避けて描出される様が見事である。悲劇にも喜劇にも、えもいわれぬ香気が漂っていた。それは結局、簡素をもって美徳とする日本人の精神の、一つの表れではなかっただろうか。
 しかしこのシリーズの圧倒的多数を占めるのは、短編(しかも短め)である。ご存知のとおり、この形式は元からシンプルさを要求されている。では中村雅楽シリーズは、長編だとどうなるのか――その答えが本書である。
 まず『松風の記憶』である。一応、基本的には何も変わりがないように見える。いつもどおり格調高い文章が、演劇にまつわる悲劇的な事件を淡々と描き起こしていく。人物像が鮮やかに立ち上がってゆく様が見事である。特に、事件の中心を占める二人の女の描写は素晴らしい。さらに、故人・当次が事件に落とす影法師も、読者に強い印象を残すだろう。事件の発端から結末までを時系列順に粛々と描くだけに見せかけて、ちょっとだけ意外な事実を隠している差配もまた心憎い。しかし血の悲劇のモチーフの扱いが少々王道で、若干のご都合主義に陥ってしまったように思われた。短編であれば、ここら辺はそれほど執拗に強調されず、折目正しく簡潔に処理されただろう。目くじら立てるべき瑕疵ではないし、歌舞伎ではよくある話(らしい)とはいえ、個人的には多少気になった。もっともこれは、犯人の落とし前の付け方も含め、様式美の範疇と解釈すべきかも知れない。
 続く『第三の演出者』は、ある劇団の指導者が遺していた戯曲を、その劇団が追悼公演にかけようとすると……という話。こちらはいつもの竹野を含め、六名の人物が一人称を担当し、順繰りに顛末を語る。必然的に、同じことが何度か視点を変えて語られるわけだが、人物ごとに見方が違っており、劇団を巡る人間ドラマが立体感を持って立ち上がってくる。しかし正直それほど差異がない部分も(この手法を使うにしては)多く、全体にちとくどいようにも感じられ、短編の場合における簡潔な語りを懐かしく思い出した。しかし、劇団の指導者という、トップに立っていた故人が、その死後にも投げ掛ける影法師、という構図は『松風の記憶』にも共通し、戸板康二の作家性を考えるうえでは極めて興味深い。