夕陽はかえる/霞流一
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日本の闇社会では、「
霞流一は、ギャグが寒いと馬鹿にされがちである。おバカな物理トリックもまた、これまた馬鹿にされがちである。その裏には緻密なロジックや伏線があるし、ギャグも単純なものではないので良い(笑えるか否かはともかく)と思うのだが、駄目な人には徹底的に駄目のようだ。
その理由は「シュールなものへの拒否反応」に集約されるのではないか。物理トリックや無理矢理な見立てを犯人が頑張って仕掛けている様子や、ギャグが現実化した場面を想像して「シュール過ぎる」と思う読者が、霞流一に否定的な立場を取っている。本格ミステリを「非日常の謎を日常へ解体・回収しなければならない」ジャンルと捉えた場合、解体・回収された先がシュールであるのは確かに困る。この点、霞流一と東川篤哉の比較は興味深い。東川篤哉もまた、ギャグを多用し物理トリックを使うこともあるが、少なくともネット上ではより広範な支持を得ているように見える。これは、彼のギャグがシュールレアリスムに行き着くはずもない単なる親父ギャグであること、彼のトリック(および見立てなどの謎の幻想性)もまた霞流一ほど偏執的・超現実的ではないからである。大方の読者の日常に、これらは適うのである。そして、霞流一の描く《日常》は、読者の日常に適わない。
ここから本書『夕陽にかえる』の話になる。
作品内の日常が読者のそれと一致しないのが問題であるならば、対処策は2種類ある*1。1つは読者の都合に合わせる作戦。しかしこれは角を矯めて牛を殺す結果となるだろう。もう1つは、開き直って《作品の日常》のシュールな側面を更に強調する方策だ。読者に自分の日常を忘れさせる or これは自分の日常を判断基準としても無意味な作品だと気付かせる。『夕陽にかえる』は、後者の方策に基づいている作品だ。
本作で、霞流一は従来、死体発見現場(見立て)、真相解明時(物理トリック)に限定して開陳していたシュールな情景を、「殺し屋や裏社会の珍奇な設定」という形で恒常的に、のべつまくなしに展開している。いつもならギャグとして現れる登場人物の奇態な言動も、この作品独自の特異な世界における日常的言動として消化される。我々読者は、シュールな戦いの世界へ誘われ、非現実的なアクションの数々を見届けることになるが、これがもう滅茶苦茶楽しいのである。霞流一は従来本格ミステリ作家として認知されてきたが、それが読者の頭から完全に飛んでしまうであろうことを保証したい。初手から凄い。だって天気予報しながら襲い掛かって来るんですよ!
私は『夕陽にかえる』を読んでいる最中、都筑道夫の最高傑作『なめくじに聞いてみろ』が浮かんで仕方なかった。このブログで私は何度か、都筑道夫が好きではない旨を表明してきたが、この『なめくじに聞いてみろ』だけは本気で傑作だと思っている*2。スピーディーな展開の妙、リーダビリティの高さ、殺しの方法の珍奇さ、漂うユーモアと哀愁。そしてシュールであるがゆえに余計に強調される、人の命のあっけなさ、人生の虚しさ。『夕陽にかえる』は全てがあの傑作に比肩している。しかも最後に、しっかりと本格ミステリとしても炸裂してくれるのだ。ロジックと伏線はいつもどおりのハイクオリティである。物理トリックも用いられるが、作品世界に慣れてしまった読者に違和感を覚えさせることはない。
間違いない。本書は霞流一の最高傑作である。強く、そして広くおすすめしたい。