不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

サクリファイス/近藤史恵

サクリファイス

サクリファイス

 白石誓は高校時代、親友に彼女を奪われ、そのトラウマからオリンピックを狙えるとまで言われた陸上の道を捨て、自転車ロードレースに転向した。しかもエースの走りを徹底的に扶助するアシストとして。誓が所属するチームのエース石尾は落ち着いた人物だが、チームの中には、自らの地位を脅かす存在を許さない怖い男と噂する者もいる。そんな中、国内で開催される大レース、ツール・ド・ジャポンの日がやって来る。そのレース二日目、白石はひょんなことから石尾を越える大活躍をしてしまった……。
 青春小説と言うには主人公が少々とうが立っている(23歳だ)ものの、まだまだ前途ある若者の煩悶と成長が一人称でしっかり語られる。もっとも本作は単純な成長譚ではなく、誓の立場が石尾のサポート役であるところが極めて興味深い。
 世の中で英雄英傑に育つ人間は僅かである。大半の人間は社会の歯車*1として一生を終えることになるし、恋人や子がいなければ、そのような人物は誰にとっても代替可能なものでしかなくなる*2。しかし、その地位自体は欠かすことができないし、唯一無二の存在たる英雄英傑も、自らの存在そのものが彼ら(掛け替えはあるけれど、非常に大切な人々)に支えられていることを認識している、または認識すべきなのである。
 本作は、このようなオルタナティブな立場にいる人間を主人公に据え、オルタナティブにはオルタナティブなりの価値ある人生があることを力強く示す。だからこそこの作品は、世の中の大半を占める我々のような人間、つまり代わりなどいくらでもいる人々に強く訴えかける力を持つのである。恋愛関係すら掛け替えありまくりなのが泣ける。なお、このようなテーマがミステリ的な仕掛けと密接に結び付いているのは、本書を本格ミステリとして評価するうえでは非常に重要なポイントとなる。250ページ未満に手際よくまとめられているのも素晴らしい。各種年末ベストでどう評価されるかが楽しみな作品といえよう。

*1:たとえニートや引き篭もりであっても、完全に自給自足の生活をしているのでもない限り、結局社会の歯車に組み込まれている。

*2:もっとも、恋人や親子は互いに唯一無二だと考えるのは脳内お花畑なのかも知れない。特に前者。