不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

離れた家/山沢晴雄

 山沢晴雄天城一同様、文章/ストーリー展開など、物語ることについての極度に禁欲的な態度が特徴であり、売りでもある。一言一句読み逃さぬよう読者に緊張を強いるわけだが、普通の作家であればその緊張と相殺させるため持ち出す《読みやすさ》や《リーダビリティ》等のサービスに一顧だにしない。従って比較的キャッチーなのは短編となる(なぜなら、そのように緊張を強いる時間が短いからだ)が、これはつまり、中長編で作者の特殊性をより一層感じさせることにもつながる。本巻においては表題作の「離れた家」がそれに当たり、トリックの精緻さと煩雑さはまさに異常なレベルに達している。芦辺拓が解説で述べるように、まさに「ここまでやるか」だ。また、禁欲一辺倒の無味乾燥の小説でもないのは心憎い。抑えに抑えた筆致の隙間から人生のロマンとも呼ぶべき感傷的な何かが漂うことがあるのだ。この点も天城一と同じである。
 というわけで、濃密な本格ミステリが揃った素晴らしい一冊といえよう。本格ファンには強くおすすめしたい。
 しかしながら、山沢晴雄天城一の強いインパクトは、ネタの先鋭度もさることながら、主に無駄の徹底的な排除によりもたらされている。しかし、贅肉と断じられ廃棄されたものには、《遊び》や《余裕》、そして《読んでいるだけで楽しめるか否か》なども含まれている。このこと自体を単純に悪とは思わないが、真の大作家であれば、先鋭的なネタとこれらの「無駄」をいずれも取り込んで更なる傑作を目指すのが筋だろう。この点、「極端に走るアマチュアリズムはマニアに特別視されやすいが、それは「遠くへ行ったこと」の評価であって、必ずしも総合的な美しさにはなり得ない」とする福井健太HPにおける指摘は卓見である。私も、『離れた家』を傑作と称揚することにいささかの躊躇もないが、山沢晴雄天城一を不世出の大ミステリ作家として崇拝する気は今のところない。