不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

バカミスじゃない!?/小山正編

バカミスじゃない!?―史上空前のバカミス・アンソロジー

バカミスじゃない!?―史上空前のバカミス・アンソロジー

 バカミスとは能動的に書くものではなく、結果的になってしまうものであると考えるが、その点は編者の小山正も同意見の模様だ。ただ、バカミスとはそもそも、厳格な定義付けを好む人間や、ある作品を単一の価値観でのみ読み解こうとする(或いはそれが正しいと信じている)人間、即ち厳粛で勤勉な人間には向いていない。バカミスとは結局のところ、その作品を読者個人がバカだと思えたか否かに尽きるわけであり、それ以上でもそれ以下でもない。そればかりか、ここで言う「バカ」がどういったニュアンスを含むか曖昧模糊としたものなのである。つまりバカミスとは、ジャンルを構成しているか否かすら怪しい、ゆるくて幅広いものなのだ。当然ながらその本質も掴み所がない。そのような観点に立てば、バカミスとは、要するに何でもありなのである。
 無論、バカミス好きを自認する人々が中長期的にその知見を蓄積しぶつけ合うことで、バカミスの範囲を大まかに画することはできるだろう。しかし、バカミスという言葉が大っぴらにできて10年ではまだその時期ではないし、たとえその時期が来たとしても、バカミスは恐らく(X論争のようなことが未だに起きる)本格ミステリよりも遥かに拡散したままであるはずだ。
 そんな中で、実作者が能動的にバカミスを書く試みがあっても良いはずだし、そのような作品を集めたアンソロジーを作るのも、そしてそれを読むのもまた一興である。付言すれば、この「○○もまた一興」の精神は、バカミス云々よりも更に上の階層、文化を楽しむうえにおいて、極めて重要なものであると考える。それこそ「バカ」にしたものではないだろう。
 というわけで違和感を乗り越え、所収の9編を読んでみた。短い作品が多く、その作家としてもネタが小粒なものが多いとはいえ、いずれの作家も持ち味を発揮しており、楽しく読むことができる。各作家が何を「バカ」と捉えているのか考えながら読めば、得がたい読書体験となるだろう。なおこの点では、霞流一の「BAKABAKAします」の情感が、個人的には一番興味深かった。
 特に素晴らしいのは戸梶圭太「悪事の清算」、鳥飼否宇「失敗作」である。前者はモノクロ写真バカミス漫画とのことだが、恐らく何も考えていない。そして後者は本アンソロジーの白眉で、そのあまりのくだらなさに、神々しさまで漂う逸品。確かに、他では発表できないだろうなあ……。
 というわけで、自らのバカミス読者としての立ち位置を確認するには好適な一冊。バカミス・ファンにはおすすめしておきたい。