不壊の槍は折られましたが、何か?

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白い雌ライオン/ヘニング・マンケル

白い雌ライオン (創元推理文庫)

白い雌ライオン (創元推理文庫)

 1992年4月24日、スウェーデンの田舎町で、不動産業者の女性が夫と子供を残し、失踪する。ヴァランダー警部らイースター警察署の刑事たちは捜査を開始する。ところがその矢先、空き家が謎の爆発を起こし、焼け跡からは黒人の指先、南アフリカ製の銃、ロシア製の通信機が発見される。一方、デクラーク大統領とネルソン・マンデラによってアパルトヘイト廃止への道のりを歩み始めた南アフリカ共和国では、ボーア人たちによってある陰謀が進んでいた……。
 本作の特徴は、ヴァランダー以外にも多数の視点人物が用意されていることだ。従来このシリーズは、死体発見者等の少数かつ一瞬の例外を除き、基本的にはヴァランダーのみを視点に据えてきた。ところが今回は、継続反復して視点に据えられる登場人物が存在するのである。それも複数。結果としてヴァランダーの《主人公》としての地位は、『殺人者の顔』や『リガの犬たち』ほどには磐石ではない。主要テーマがアパルトヘイトであるうえに、ヴァランダー以外の視点人物が基本的に南アフリカ共和国関係者ばかりであるがゆえ、ヴァランダーの印象はあくまで前作までと比べてだが弱くなっている。ヴァランダーの私生活にかかわる変動も、既存2冊ほどには強く打ち出されない。彼の娘が誘拐の危険に晒される、という展開もあることはあるが、盛り上げのための常道を踏んだ手続でしかなく、《ヴァランダー自身の物語》という性格を帯びるには至っていない。しかし代わりに、『白い雌ライオン』は、アパルトヘイト=人種差別に関する、極めてスケール豊かなランドスケープを手に入れた。シリーズ・レギュラー個人の物語、という性格は後退し、主要主題が全編にわたって鮮やかかつ多面的に浮かび上がる様は、まさに圧巻といえよう。波乱に満ちた展開も、構成力含め実に素晴らしい。まさに傑作であり、もっと多くの人に読んでもらいたい作品である。
 なお、いずれも一瞬だが、実在の著名人であるデクラークやマンデラも視点人物を務めるのは興味深い。彼らの視点の導入は、現実社会と小説を有機的に結び付けるうえで非常に役立っている。その効果のほどは目覚しいうえに、ジェス・ウォルターが『市民ヴィンス』で一瞬導入したレーガンやカーターの視点と比較すると、遥かに違和感なく作品に収まっている。ジェス・ウォルターはカーターを誠実な人として、レーガンDQNとして描き、作者の政治信条の在り処を鮮明に出してしまった。しかしヘニング・マンケルは常に落ち着いており、デクラークやマンデラの扱いは、他の視点人物と差がない。社会的な事柄を扱う娯楽小説において、この種の冷静さは好ましく、ヘニング・マンケルは只者ではない証左となっている。