不壊の槍は折られましたが、何か?

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サマーバケーションEP/古川日出男

サマーバケーションEP

サマーバケーションEP

 先天性相貌失認(多分)を患う青年が、井の頭公園で会った人々と意気投合し、井の頭公園を源流とする神田川沿いを歩いて海まで行こうとする物語。話は単にそれだけだが、にもかかわらず非常に面白い。
 同じく井の頭公園から出発して徒歩で都心を目指すロードノヴェルに、藤田宜永『転々』という傑作がある。この『転々』は、どちらかと言うと、歩くことを通して深まる登場人物の絆、徐々に明らかとなる隠された事実、そして何よりも登場人物たち自身のドラマをもって、読者の胸を打った側面が強い。もちろん背景には、歩くこと、そして歩く道の風景が活き活きと描かれていた。しかし眼目は、歩くことそれ自体以外の、登場人物たちの人生にあった。歩くことが人生に与えられ、または与える影響に関する物語であったとも言えよう。
 しかし、古川日出男の『サマーバケーションEP』は違う。もちろん、実際には*1、歩くことによって登場人物たちは影響を与え合い、彼ら自身の人生へと戻ってゆくのだろう。事実、ラストではそういった暗示もなされる。だが一義的には、彼らはただ歩き、楽しむだけだ。にもかかわらず、繰り返すが、これが面白いのである!
 先天性相貌失認(多分)を患う主人公の語り口が作品の価値を決定付けている。最初のうちは少々読みにくいかも知れない。主人公は知能面でも少し障害を持っているのではないかと疑う向きすら出るかも知れない。しかし段々に乗せられて来る。神田川の光景が、恐らく実態以上にヴィヴィッドに感じ取れるようになる。そして我々は、主人公の同行者たちと共に、圧倒的なグルーヴ感に包まれながら都心を目指している自分に気付くことだろう。これこそがまさに古川日出男の文章であり、彼にしか書けない、唯一無二、独自のパラダイムが読者の前に広がる。
 もちろん、この作品は完璧な作品ではない。結局歩くだけであり、登場人物の人間性に物語は深く踏み込まない。そればかりか、スタイリッシュな作者の文章に全てを依拠しているとすら言える。そのような小説を表層的であるとして難詰する読者は、残念ながら少なくないはずだ。また、東京に住んでいない人や東京に反感を抱く人にとって、本作の内容それ自体が読書における感興を殺ぐであろうこともまた事実である。しかしそれで良いのだ。この小説は、結局、神田川を歩くだけの小説である。全体を通しても、結局のところ夏のある日の《冒険》にしか過ぎない。そんな小説が嫌で、でも東京ロードノヴェルが読みたければ、『転々』だけを手に取れば良い。ロードノヴェルがそもそも嫌いであるならば、または東京が嫌いならば、『転々』も『サマーバケーションEP』も読むべきではない。しかし、ロードノヴェルの様々な顔を知りたければ、あるいは全てを忘れて単に読書に淫したいだけであれば、どうぞ『サマーバケーションEP』を手に取り、読んでいただきたい。そのような読者には、この小説は素晴らしい読書体験を運んでくれることだろう。もちろん古川ファンにも強くお薦めしたい。

*1:という言い方は、虚構の存在である小説の登場人物にとって相応しいものではないだろうが。