不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

片眼の猿/道尾秀介

片眼の猿 One‐eyed monkeys

片眼の猿 One‐eyed monkeys

 非常に緻密な作品であり、その技術的な側面は絶賛に値しよう。真相が判明した時、結構な数の読者が爽快な気分を味わうことができる。しかし反面、読んでいる最中が絶望的につまらない。道尾秀介は、『片眼の猿』の外形をハードボイルドとして整えている。ところが主人公をはじめ、成熟した人間の造形に完全に失敗しており、ハードボイルドとしては箸にも棒にもかからない。そして結果的に、道尾秀介には成熟した人間のドラマが描けないこと、少なくともその疑いがあることを天下に示してしまったのである。
 もちろんネタゆえにこうなった側面があるのは理解する。だがこのネタを、成熟した人間のドラマと組み合わせる必然性がどれほどあったのか? 何でこんなことを言うかというと、このネタを、本格ガジェットが満載の物語、あるいは未成熟な人間(=お子様:精神的なお子様を含む)のドラマと融合させたなら、問題は全くなかったと思われるからだ。道尾はこれまで、成熟した人間のドラマを書いてこなかったわけで、だからこそ、そっちの物語を初めて扱う場合は注意を要する。彼が本格に特化しない作家人生を歩みたいのであれば、そして仕掛けと物語の両立を志向するのであれば、新たなテリトリー(今回は「ハードボイルド」あるいは「成熟した人間によるドラマ」となるが)に踏み込んだ上で「仕掛け良ければ全て良し=他はどうでもいい」という作品を書くべきではなかった。道尾秀介の実力云々の問題というよりは、構想上・戦略上のミスだろう。
 というわけで『片眼の猿』は、現時点では、傑作かつ駄作という珍しい位置付けにある。今後の道尾秀介の作風動向によって、この位置はいかようにも変わるはずだ。「成熟した人間によるドラマが書けないのではないか」という疑いが濡れ衣かどうか、今後の動向を注視したい。