不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

数学的にありえない/アダム・ファウアー

数学的にありえない〈上〉

数学的にありえない〈上〉

数学的にありえない〈下〉

数学的にありえない〈下〉

 統計学の元大学講師デイヴィッド・ケインは、原因不明の幻覚に頻繁に襲われるようになった挙句、ギャンブル好きが高じて破滅の瀬戸際にあった。そして遂に、非常に低確率の手によってカジノで大敗を喫する。進退窮まったデイヴィッドは、双子の兄ジャスパー(統合失調症に罹っている)に相談に乗ってもらったり、恩師ドクの援助を請おうとするなど金策に駆け回る……。一方、国家安全保障局の《科学技術研究所》所長のジェイムズ・フォーサイス天才科学者を自称するトヴァスキーが何らかの大発見をしたことを職務上知り、おこぼれに預かろうとする……。ナヴァ・ヴァナーは美貌の凄腕エージェントで、KGBに訓練され合衆国に潜入するもソ連崩壊その他の事情で今はCIAの中で二重スパイを働いていたが、北朝鮮のエージェントに乗せられ……。
 という感じの雑多な場面が提示されるが、これらがどんどん収斂して行くタイプの小説である。そして中心に据えられるのは、確率論だ。
 確率論と言うと、同種のネタを、山口雅也『奇偶』は本格として濃厚に煮付け(やり過ぎて本格の規格外に到達した観なきにしもあらず)、デイヴィッド・アンブローズ『偶然のラビリンス』は奇妙な味付けを施したことを鮮明に思い出すところだ。これらに比べ、『数学的にありえない』は、さくさく読めるサスペンスとして手際よく纏め上げたと言えるだろう。上巻で諸事項を手際よく繰り出しては整理整頓し、話が転がり出す叩き台を磐石なものとする。そして下巻で伏線を矢継ぎ早に回収しつつ、怒涛の展開を見せる。構成の妙というやつで、ノン・ストップ・サスペンスという煽りに嘘偽りはない。またキャラクターの描き分けもしっかりおこなわれ、訳も読みやすく、完成度は非常に高い。
 まず何よりも、上下巻800ページ超の物語を、特に肩も凝らさず一気読みできるのはたいへん素晴らしい。個人的には、強烈な重力を持つ『奇偶』や、幻想的な風情すら湛える『偶然のラビリンス』の方が好みだが、『数学的にありえない』は、他の2作にはない親しみやすさがあって、広範に支持を得ることができるはずだ。またそもそも、偶然や量子論を扱いつつも非常に読みやすいというのは、実に得がたい長所と言える。ミステリ・ファンにもSFファンにも、いやそればかりか普段小説を読まない人にまで、幅広くお薦めできる良作といえよう。
 なお、蛇足かも知れないが、作者あとがきと訳者あとがきを読んで、この作品には、作者の友人への挽歌という側面があることを知ると、確かに少し切なくなる。こういう隠れた事情も、なかなか乙なものだ。