不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

枯草熱/スタニスワフ・レム

 枯草熱とは今で言う花粉症のことだが、サンリオSF文庫で初めて訳出されたときは花粉症という言葉が一般的ではなかったため、タイトルがこうなった。そしてこの邦題は、国書のレムコレでも踏襲されたのだよワハハハ、という誰でも付言することに私も一応言及しておこう。で、その花粉症を患っているがゆえ宇宙飛行士として二軍止まりだったアメリカ人のジョンが私立探偵となり、イタリアにおける連続怪死事件に挑む物語。
 カップリングの『天の声』がSFの極北だったとすれば、この『枯草熱』はミステリの極北である。同じくレムの『操作』に延長線上にある話で、テーマの掘り下げ度合いもさることながら、悪夢にうなされるような強迫的な雰囲気(とても地中海気候の保養地やパリを舞台にしているとは信じられない)もパワーアップしている。本筋とは関係なさそうな挿話も遠慮なく投入されるが、しかしその挿話たちは、一々が文明への洞察と批判精神に満ち溢れており、個別に強烈な印象を残す。特に、無差別テロが世界で多発しているという設定は、9.11後の現代社会を予見しているとさえ言えて興味深い。
 話の展開も手が込んでいるというか、何か深い意味があるのかと勘繰りたくなるような要素が満載。たとえば、何の予備知識もなく読み始めた場合、最初のうちは、主人公が誰で何をやっているのかさっぱりわからないはずだ。主人公はイタリアを旅している模様だが、何らかの使命を帯びているようでもあり、微妙に挙動不審。……と思ったら、なぜかテロリストと戦ったりしてわけがわからない。実は、彼は連続怪死事件の被害者?の一人のイタリアにおける行動をなぞっていたのであり、テロとの遭遇は偶然であったのだ。ということがわかるまで、40ページ程かかる。すらすら読める文章でないことも考えると、清々しいまでの不親切設計といえるだろう。
 そして『枯草熱』の中心テーマと来たら! ミステリを危殆化しかねないテーマを、レムは平気な顔をしてじっくり燻り出す。もっとも、この作品でレムがミステリに挑んだ動機は、ミステリをどうこうしてやろうということではなく、人類や知性の限界を見据えること、この世界をランダムネスに捉えることにこそある。《知性三部作》や『天の声』で追求されたテーマが、『枯草熱』でもまた追求されるのである。意匠こそ極北ミステリだが、この作品はミステリとしての位置付けのみから語られるべきではない。我々は、クラクフの賢人が提示した、より巨大なテーマと対峙し、その洞察の深さをしっかりと見届けるべきなのである。
 というわけで、これも傑作。先述のように読みやすくはないので、相応の覚悟をして取り掛かるべきかと。『天の声』よりはマシだと思うが。