不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

金星応答なし/スタニスワフ・レム

 21世紀、社会主義は資本主義を打ち負かし、全地球規模で理想的な社会を築くことに成功した。そこでもちろん採算度外視のうえ、砂漠に水を撒き散らし緑豊かな大地に変えた人類は、いよいよ両極に人工太陽を打ち上げ、寒気を永久に消し去る計画に着手する。その過程で人類は、1908年に落ちたツングースカ隕石に関係する磁気コイルを発見。これが金星から来たことが判明してさあ大変。そう、金星には知的生命が(それも他惑星に物体を持って来るような高度文明種族が)いるらしいのだ! 早速、宇宙船を建造し、科学者が金星調査に向かうのであったが……。
 SFのみならず(ノーベル賞こそ取れなかったが)恐らく世界文学界に君臨し、私個人の視点から見ると、ポーランド人としてはフレデリック・ショパンと並び我が趣味の世界に甚大な影響を及ぼしている巨人、スタニスワフ・レムのデビュー作である。
 皮肉で悲観的、ときに絶望的ですらある視線が身上のレムだが、『金星応答なし』は、この作家にしては異様に楽天的だ。ここにあるのは社会主義や人類、そして何よりも科学に対する底抜けの信頼である。悲観論は持ち出されない。ただし頭がお花畑の明るい小説というわけではない。当時の科学知識*1に基づき、微に入り細を穿つ硬質なSFでもある。ロケットを作り出してから最後まで延々と続く、物語の緻密な描写、そして思弁はまさに圧巻である。完成度が非常に高い、カロリー満点の作品と言え、要はその筆力をもって何をやったかが、他の作品と若干異なるだけなのだ。
 ただし、後年レムが追求することになるテーマの萌芽が見られて興味深い。金星文明と調査隊の間には、異質なモノとの埋めがたい溝が既に表れている。また、最後に金星人の目的が明らかにされるとはいえ、金星人自身は概ね謎に包まれたままだ。それは単に証拠不十分ということもあろうが、そもそも理解できる存在なのか。作者の筆は否定的であり、どう見ても『ソラリス』辺りの、理解を絶した存在に対する虚しさや畏れに近似している。
 というわけで、読み応え十分の作品。レム・ファンは必読だし、読み終わっても精神状態が悪化しないので、入門にも適しているのではないか。お薦めです。

*1:今や古くなっていることは否定できない。たとえば、ほぼ全ての砂漠に水を撒いたり、北極や南極の氷を溶かしたりしたらどうなるか、これはもう想像するだに恐ろしい。そんなことやらかした日には、間違いなく地球環境が根こそぎ破壊されるだろう。特に両極の氷を溶かすことなぞもってのほかで、人類滅亡は必至である。全面核戦争の方がまだ生き残れそうだ。しかしまあここら辺は仕方ないので、批判材料たり得ないと思う。我々が見るべきは、非常に緻密に描き込まれた金星探査行であり、いくらか変な箇所があるとはいえ、この時代にここまで書けたレムに脱帽だ。