不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

密約幻書/多島斗志之

密約幻書 (講談社文庫)

密約幻書 (講談社文庫)

 再読。
 1975年、神戸の異人館に済む新井裕子(最近父親を亡くした)の元に、英国の大富豪ゴッティの使いだという辰巳一夫が現れる。裕子の祖母は亡命ロシア人だったが、彼女の遺品の、古い鞄を買い取りたいというのだ。どうやら、日露戦争当時のイギリス人従軍記者が書いた回想録に、祖母に関係する記載があり、その祖母が鞄の中に資料を持っている、ということになるらしい。しかし裕子は、なぜゴッティがそんなものを欲しがるのか興味を惹かれ、すんなりと売りそうにない。ゴッティは辰巳に、裕子をイギリスに連れて来いと指示する……。
 物語は最初のうち、辰巳と裕子という二人のやり取りによって進行する。関係しそうな世界的事象は、作品内時間ですら70年も前の日露戦争。もはや完全に歴史的事柄であって、リアルタイムの現実として登場人物に襲い掛かりそうにない。しかし、この淡白かつ個人ドラマに終わりそうな発端から、物語はじわじわとスケールを拡大してゆき、最後の一行において、割と大ネタに到達する。発端と最後を直接比較すると、そのスケールや位相の隔たりはご無体なほどで、よくこんなこと考えたなあ、というのが本音。しかし構成が非常に良く考え抜かれているので、非常にすんなりと読め、少なくとも読んでいる最中に特に違和感は感じないはずだ。我々読者は、読み終わって冷静になったとき初めて、『密約幻書』がとてもおバカ(誉めています)であることに気付くのである。
 なお、物語としては、辰巳と裕子の触れ合い、ゴッティ一家の不気味さ、英国諜報員たちの信頼関係等、読みどころは多い。全てが端正な文章で綴られているのもポイント高し。要するに『密約幻書』は、スケール・ストーリー・プロット・キャラ造形いずれの点でも申し分なく、かつ完成度も非常に高いという傑作なのである。
 私は『バード・ウォーズ』を未読であるという(恐らく)重大な欠陥を抱えているが、その狭い範囲内では、彼の最高傑作と断言して憚らない。強くお薦めしておきたい。