不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

忘れないと誓ったぼくがいた/平山瑞穂

忘れないと誓ったぼくがいた

忘れないと誓ったぼくがいた

 目が悪くなった高校3年生の《ぼく》は、眼鏡を買いに行き、店で応対してくれたバイトの女性店員がなぜか印象に残る。しかし顔がよく思い出せない……と思っていたら、彼女はなんと《ぼく》と同じ高校に通う、学年は一個下のあずさという名の娘だった。徐々に親しくなってゆくあずさと《ぼく》。しかし彼女は、消え去る運命だったのだ……。
 この作品は、一部に冷笑をもって迎えられている。確かに、恋愛の酸いも甘いも噛み分けた成熟した人々には向かない作品だろう。ここでは描かれるのは終始一貫、徹底的に、ぼくとあずさのみである。それ以外では、辛うじて《ぼく》の親友が、たまに印象的な発言をおこなう程度だ。他の登場人物は概ねどうでも良いというか、完全に話の添え物でしかなく、存在感も薄い。そして最後まで本当にほぼ関係ない。
 このように事実上ぼくとあずさしかいない作品世界の中で、両名とも(特にぼく)極めて純粋な言動を繰り返す。セックスはおろかキスさえほとんど見られない超純情ぶり。そして彼は、ホワイトナイトよろしくあずさの消滅を食い止めようと虚しく奮戦するのだ。その様はいっそ清々けれど、寒く感じる人も出るだろう。これは個人の感じ方である。ゆえに致し方ない。
 だが、ここには平山瑞穂一流の、リリカルで瑞々しい文章がある。本質的には未熟でありゆえに無垢な感性がある。そして文章そのものは非常によく練られている。描かれている内容が心地よいかは人それぞれだろうが、文章それ自体はとても端正であり、情感の微細な部分も物語にひっそりと忍び込ませることができる。その限りにおいて、これは『ラス・マンチャス通信』同様の傑作であるのだ。
 また、最後まで読めば、この作品は、全てを忘れた後の《ぼく》が昔のメモを読み「多分こうだったのだろう」と再構成した物語だということが判明する。そのメモには、当然のことながら当時において一番肝心だったこと、つまりあずさとの恋しか書かれていないはずである(恋をメモるという行為はそういうことだろう)。しかもあの特殊状況下であれば、メモの文面は尚更それだけに埋め尽くされるはずだ。さらには、恋愛を文章化して書き残す過程で、《ぼく》の感情は純化されて、そのことが記載内容に影響しているに違いない。そして、彼自身が全てを忘れた後で、その純粋化された情報からのみ、過去を再構成するのであれば、それが輪をかけて純化されるのは、容易に理解し得ることなのではなかろうか。
 喩えて言おう。私が、読んだ本の内容を忘れ去った場合に、《不壊の槍は折られましたが、何か?》の粗筋つき絶賛感想文から、その全ストーリーを再構成するようなものだ。そこでは、当該作品の純化・聖化・理想化がおこなわれているだろう。実際の作品とはまるで異なったものが出て来ているだろう。そもそもこれは再構成と言えるのだろうか。単なる捏造ではないのか。だが、その小説を読んでどうやら私が「素晴らしい」と思ったことだけは、伝えることもできるのではないか。
 『忘れないと誓ったぼくがいた』で《ぼく》がおこなった行為も、結局は同じことだ。記述者たる《ぼく》が忘れている以上、恋愛が理想化され過度に純化されるのも当然の話なのだ。恋愛における嫉妬とか喜びとか哀しみが生々しく描かれないのも、当然なのだ。なぜなら彼は忘れているから。決して思い出せないから。そして、想い出はいつだって美しく描かれるべきものだから。

 私自身は泣かなかったし、胸を震わせたわけでもない。しかしこれは非常に良い作品であると思う。表紙も鬼のようにズルイ。読みやすいし薄いので、広くお薦めしたい。