不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

暗闇のスキャナー/フィリップ・K・ディック

Wanderer2006-01-22

 覆面麻薬捜査官ボブ・アークター(捜査官としてはフレッドを名乗る)は、ドラッグ《物質D》捜査のため自ら《物質D》を服用して中毒者グループに潜入し、一緒に生活していた。そしてボブはいつしか彼らにシンパシーを感じるようになり、また、麻薬売人であるドナ・ホーソンに恋するようになる。なおボブは、捜査官としての打ち合わせに、《スクランブル・スーツ》と呼ばれる、外皮に様々な人影が投影され誰だかよくわからなくなるスーツを着用して臨むため、警察内部の誰もがボブ=フレッドであることを知らない。
 そしてある日、フレッドは上司(彼?もまた《スクランブル・スーツ》着用)から命令を受ける。盗聴装置を仕掛けて、ボブ・アークタを監視せよと。自宅にスキャナーを設置して、自分の日常を自分で隠し撮りする毎日。ところが、ドラッグによってのボブの精神は変調を来たしてゆく……。
 山形浩生の若獅子のような、言葉の過ぎる解説が面白い。しかしそこは流石で、『暗闇のスキャナー』の魅力については全てが語り尽くされている。
 要約すれば、ディックは他の作品において、SFや神学等、小説の世界においては《ガジェット》とみなし得る要素に甘えて、主人公に降りかかる《現実》を、《ドラッグや電波を介してのみ到達し得る特殊体験》つまり凡人には気付けない類の「超越的なもの」として設定した。しかし、『暗闇のスキャナー』は異なり、確かにドラッグで崩壊する自我はあれど、崩壊前も、崩壊中も、そして崩壊した後でさえ、主人公は一貫して変わらぬ過酷な現実に支配されている。更には、《せめて気持ちだけはポジティブに》という姿勢さえ拒否され、過酷な現実は苦痛と破滅のみをもたらす。残るのは、主人公や麻薬中毒者に対する、ディックのペシミスティックにして強烈なシンパシーのみなのである。
 SFや神学が甘えであるかはともかく、本書の魅力に関しては、私もその通りだと思う。ドラッグに彩られた、この孤独で過酷でおまけに絶望的な物語は、読者の胸を強く打つだろう。美しいまでに悲痛なラストも特筆もの。やはり必読だと思う。個人的には現時点で『流れよ、わが涙、と警官は言った』と並ぶ、一番お気に入りのディックである。