不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

火星のタイムスリップ/フィリップ・K・ディック

Wanderer2005-12-31

 火星植民地は慢性的な水不足に苦しんでいた。なんか自閉症児童多いし。で、グローブ博士は、自閉症とは体感時間が極端に遅い病気である、との仮説を有力だと考えていた。一方、地球から移住してくるときに精神を病み、現在はそれなりに回復したジャック・ボーレン(妻子持ち)は、地球にいる父親(金持ち)から、火星のとある山を買いたいので今から火星に向かうとの連絡を貰う。さらに一方、水利労組組合長(もちろん火星有数の有力者)アーニイ・コットという奴がいて……。
 一部の人には障壁と思われる事項が、二つある。
 まず、火星に生物どころか先住民さえいること。火星に知的種族なんかいるわけないじゃん、というかテラフォーミングもせずに植民などできるはずないじゃん。しかし、これを理由にこの作品を駄作と判断するのは、正直、いかがなものかと思う。問題点だと認識すること自体にも、首をひねる。駄作や問題であるか否かは、単純に面白いかどうかで判断されなければならず、いかにSFといえども、未来あるいは未知の事実を予見する必要はない。そもそも現実を反映する必要さえない。チャペックはロボットという単語を初めて使用し、クラークは衛星通信を予見した。他にも色々と、確かに作品内の事項が現実となったケースはある。それはそれでなかなか偉いとは思う。しかし、彼らがSF作家として素晴らしい理由は、そこにはほとんど求められない。火星人がいたっていいじゃないか。火星の空気が呼吸できてもいいじゃないか。1990年代に宇宙旅行バシバシやっていてもいいじゃないか。キューブリックのあの映画は、2001年に宇宙旅行できていない現実があってもなお、傑作である。彼が死んだとき「2001年に宇宙の旅なんかできないじゃねえかバーカ、という突込みができなくなって悲しいwww」と思った人間にこそ、死は相応しいのだと思う。彼らよりも先にキューブリックが死んだのは痛恨極まりない。それと同様、『火星のタイムスリップ』の価値判断は、他の基準に委ねられるべきなのである。
 そして、第二点。『火星のタイムスリップ』のテーマは、最初から明示されず、多視点から並行的・断続的・重層的・漸近的に描出されてゆく。しかも視点の転換は頻繁。この点で読みにくい面は確かにある。しかしこれは批判材料足り得ない。それぞれの視点は明快に打ち出されているので、これで読みにくさを感じるのは読解力の問題であり、ディックの創作能力の問題ではないと思われるからだ。一部に、自分の読解力のなさを棚上げして「読解力がないというのは思考停止だ」とする方々もいらっしゃいますが、だからそれは読み手側の問題なんだってば。
 以上二点を評価基準に設定しない読み方にもとづき、『火星のタイムスリップ』は駄作だと言うのであれば、私としては特に問題を感じない。というかどのように読めば駄作となり得るのか、その視座を知るのは極めて有益であると考える。個人的には、傑作だと思うけどね。この倦怠感と閉塞感、微妙にもたらされる希望とかたまりませんよ。
 というわけで、読んで欲しいなあ。自閉症関連の団体がゴチャゴチャ言い出して絶版になる前に。ガブル、ガブル。