不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

独裁者の城塞/ジーン・ウルフ

Wanderer2005-10-24

 《新しい太陽の書》の第四巻、翻訳あるものでは最終巻。物語はここで一応の完結を見、セヴェリアンの冒険を前作から引き継ぎつつ(今回は戦地にさえ行ってしまう)、後半に至るや俄然、世界の謎が一気に明らかになってゆく。うーん、カタルシス……。しかし、陶然とばかりもしていられないのだ。世界の概要こそ明かされるが、未だ神秘のヴェールに包まれたままの事柄は多く、そもそも謎の存在自体に私が気付いていない可能性も高い。たとえば、最後の二章における訳者注解(ウルフ自身の指導に基づくらしい)は、なぜそうなるのか未だ理解できていない……。そして、これは予感というよりも確信に近いのだが、再読すれば解釈の余地が更に拡大するはずである。しかしまあ、よくぞここまで惑乱させてくれるものだ。
 解釈上の問題だけではなく、テキスト自体も相変わらず素晴らしい。特に、114ページからのアスキア人による物語とその通訳は、もはや頭の上に神様がとまった状態*1で書かれたとしか思えない。つくづく、つくづく素晴らしい。
 しかし、本巻解説で鏡明も似たような懸念を表明しているが、果たして他の読者がこの作品を楽しんでくれるのだろうか? これを楽しめるのは、ウルフがたまたまツボに入る変態だけではないかと、不安で仕方ないのだ。なぜなら、《新しい太陽の書》はテキスト自ら疑念と深読みを要求するわけだが、この性格自体が、拒否反応のトリガーとなり得るからである。読者として「小説の作者は、自らの被造物やテーマを作品内で明示すべきであり、それ自体を隠してしまう作品に価値などない」と断言してしまうスタンスも、それはそれでアリなわけで、こういう読者にとってジーン・ウルフは、やるべきことをやらない、怠惰で変に勿体をつけているだけの嫌な野郎にしか映らないはずだ。ましてやSFの場合、SFを娯楽小説の一類型とみなす人間は多数派のはずで、娯楽小説を《読者にサービスするタイプの表現形態》と捉える人間も恐らくは多数派だろうから、より広範囲に拒絶反応を惹起する可能性がある。もちろん、全員がジーン・ウルフを受け付けないわけではなかろうが、さりとて私が感じたような満足・充足・感動を得る方が少ないことも、恐らくは確実だ。
 ……こういう論調だと、自分が《選ばれた読者》であると言っているように見えて、我ながら危険な文章だが、そんなことは実際、爪の先ほども思っていない。他人のことばかり気にしていては誉めることも貶すこともできず、気に入ったり入らなかったりも表明できないという原則的な立場の下、そうは言っても何の条件設定もせずに神だ傑作だと喚き散らすのもアレなので、延々と言い訳しているということである。煎じ詰めれば、私はただただこう言いたいだけなのである。私にとって、《新しい太陽の書》は本当に素晴らしい作品であったと。
 というわけで、いつも以上に個人的感想に終始したが、毒食らわば皿まで、《この小説はひょっとして俺の為に書かれたのではないか》と一瞬本気で思い込みかけた部分を引用して、ジーン・ウルフと《新しい太陽の書》に最上の敬意と感謝を表したい。

 白状するが、わたしは物語が大好きだ。実際、世の中のすべてのよきものの中で、人類が自分のものだと主張できるのは物語と音楽だけである。(中略)物語は宇宙の計画のなかでは実際に小さなものであるが、われわれ自身のものを最高に愛さずにいることは難しい――少なくとも、わたしにとっては難しいことなのである。
11.<十七人組>の忠実な部下――正義の人 ハヤカワSF文庫版 120p

*1:表現を某所から借用している。