不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

拷問者の影/ジーン・ウルフ

Wanderer2005-10-06


 『ケルベロス第五の首』におけるジーン・ウルフは、それ自体でも十分に魅力的な《全貌》を構想したうえで、それを直接または具体的に提示せず、語りに設けた余白に潜ませた。そして、道標を特段目立たない形で作品全体に配置した。道標に気付いた読者は、それを辿ることで、《全貌》の輪郭を押えることはできる。しかし、細かな設定まで追おうとすれば、ヒントを辿るだけでは足りず、テキストを疑いの眼差しで精読し、読み取れる可能性のある事柄を一々検証してゆかざるを得ない。つまりテキストが深読みを要求している。ここで注目すべきは、能動的な深読みによって物語舞台の奥行きが増すように思えること、かつ、精読の必然として小説自体をいつも以上に堪能できるということだ。
 構想の全てを明文で記述した場合、読者にとって理解しやすい反面、彼または彼女はテキストを疑わず、理の当然として《全貌》がテキストの記述範囲内に限定されてしまう。もちろんこれでも特に問題ないが、テキスト外に何かあるのではないかと疑い、探求することは、読書の楽しみを深めこそすれ阻害することは決してないと信ずる。ましてや『ケルベロス第五の首』は、テキストがそれを要求しているのである。このような楽しみ方は、唯一とは言わないが、極めて有効な読み方ではないだろうか。
 もちろん、「そんな読み方は嫌いだ邪道だ」という立場を採る読者が出ることは理解できる。しかし、当該発言者は、一瞬でもいいから、作者による親切な明示がなければ小説を読解できないと告白しているも同然である可能性を考慮すべきだろう。*1

 というわけで、《新しい太陽の書》第一巻である。私は強い予感がする。この作品は『ケルベロス第五の首』の方法論が採用されているようだが、『ケルベロス』よりは幾分親切で、しかし同時に『ケルベロス』を遥かに、圧倒的に凌駕する傑作中の傑作ではないだろうか。この予感が外れなければ、私のオールタイムベスト10入りどころか、ひょっとするとひょっとする。断言にはいささか早いが、実はこれを書いている時点で、第二巻も読了しており、期待は高まる一方であることを申し添えておきたい。
 私はつまり、このように個人的でしかない感想を書くほどに、舞い上がっているというわけだ。
 この段階でこれ以上書いても仕方ないので、中世を思わせる世界(惑星ウールス)の、巨大な城塞における一幕(60ページ代)をご紹介して今日は終わりたい。やはり、これを何も考えずに流していただきたくはないのである。

 彼が清掃している絵は、荒れ果てた風景の中に立っている鎧兜姿の人物だった。武器は持っていなかったが、奇妙なこわばった旗のついた旗竿を持っていた。この人物の兜の面頬は全体が黄金製で、目の細孔も呼吸孔もなく、そのぴかぴか輝く表面には、死のような砂漠が映っているばかりで、それ以外には何も見えなかった。
 (中略;絵の清掃が進み)
「ほら、見事に光り輝いたろう? 彼の肩の上にふたたび、もとの青いウールスが昇っている、独裁者の魚のように新鮮にな」

*1:ついでなので付言しておくが、《ミステリは作者と読者の騙し合いであり、ゆえにミステリのファンはテキストを疑いつつ読む》と信仰している人が多いように思う。しかし、途中はともかく、最終的には、ほとんどのミステリは《真相》という結論がガチガチに確定し(刑事罰を問えるほど証拠が挙がったかどうかは、本論においては無関係である)、そしてそこに含まれているであろうテーマをも明示して終了する。私は考え込まざるを得ない。ミステリは、あらゆる小説形態の中でも、もっとも読者に親切であり、読者もその親切を当然と思っていないだろうか。フーダニット、ホワイダニットハウダニット。ここら辺でも既にして親切だが、私には、小説の更なる深奥部にあるはずの「作者はこの小説で何が言いたかったのか?」という部分までもが、《真相》の明示によって太陽の下に晒されることが多いと感じられる。我々ミステリファンは、この《真相》は疑わないのではないか。それまでの途中経過において色々疑うのも、結局のところ《真相》があると無根拠に信じているだけではないのか。悩みは尽きないのである。