不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

  1. メンデルスゾーン交響曲第4番イ長調Op.90《イタリア》
  2. ブルックナー交響曲第7番ホ長調

 神。……の一言で済ますつもりだったが、敬虔なキリスト教徒であるブロムシュテットは、神と呼ばれることを好むまい。だから、拙くよしなしごとを書くことにする。
 両曲とも、徹頭徹尾、自然体。これ以上ないほどのバランスでしっとりと、しっかりと鳴らされるメンデルスゾーンブルックナー。変なことは一切やらない。ブロムシュテットの視線は楽曲の隅々まで行き届くが、しかしそれは偏執的に細かいわけでもない。そればかりか全体としては微温的・常識的な解釈であったとさえ言え、受け狙いの要素が皆無だった代わりに、妥協を拒むような峻厳さもない。一言で言えば、全てが程好い。だが、そのような音楽の温かい佇まいそれ自体が、何と……何と力強く、感動的であったことか!
 オーケストラの出来上がりも、素晴らしいの一言で、前半にして私の視界は滲んだ。そして、後半……。私は泣くことさえ忘れ、ただただ呆然としていた。眼下で展開されていることの余りの温かさと美しさに。余りの情報量の多さに。生成した次の瞬間に消滅する音楽というもののありようの、余りのかけがえのなさに。そして、自分が十全に受け止め切れない……いや、ほとんど全てを指の間から零している、その余りの歯痒さに。
 《圧倒された》等の生ぬるい表現が間に合わない感情を覚えているうちに、後半も終わってしまった。盛大な拍手。私も手が痛くなるほど拍手した。素晴らしいコンサートであった。もう当分この二曲は聴けないかもしれない。そしてブロムシュテットは、今期をもってゲヴァントハウスを去ってしまう。日本の我々が彼を聴けるのは、今後、NHK交響楽団とに限られてしまうかもしれない。その際、彼らにこのような演奏が可能なのだろうか? 強い危惧と、《間に合った》ことによる安堵、にも拘らず前述のような体たらくであったことの無念さ、そしてもちろん感動の余韻、それらがない交ぜになる中、私は帰路についた。今日の演奏会は、私の生ある限り、記憶に残り続ける。これ程の気持ちにさせてくれる演奏会に、次はいつ出会えるのだろうか?