不壊の槍は折られましたが、何か?

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四畳半神話体系/森見登美彦

四畳半神話大系

四畳半神話大系

 前作のデビュー作『太陽の塔』はファンタジー臭が薄かったが、今回はページを手繰るに従って「ああこれはファンタジー小説だな」という感じになってくる。そして最後の方ではもはやSFじみた様相さえ呈し、物語の平仄もそれなりに合って来るのだ。それがどういったものかは敢えて書かない。まあそう大それた仕掛けでもないので、過度に期待されるとつらいけれども。

 ところで『太陽の塔』の特徴は、何と言っても主人公たちの激烈な自意識と妄想にあった。モテないことから来る精神の歪み、その自覚から来る自暴自棄でトリックスター的な言動。しかし結局、自分のプライドが一番大事なだけなのである。そんな資格もないのに。というわけで、『太陽の塔』は矮小でユーモラスで、そしてとても哀しい物語なのである。プロットが破綻気味なのも、主人公たち(=作者?)の精神状態が最大の要因なのだと思われる。というか、破綻あってこそのこの《イタさ》なのだ。そして《イタさ》、要するに肥大化した自意識こそが『太陽の塔』の根幹を成すのである。

 一方、今作『四畳半神話体系』は物語として完成度が高い。先述のように平仄が合い、伏線は回収されるような話なのである。主人公は『太陽の塔』の主人公たち同様モテないが、作者の筆は彼に対しどこか余所余所しい、客観的な視座を保ち続ける。一人称を使いながら、それも、主人公自身は肥大化した自意識を抱えていながら、全てが怨念と屈折に塗り込められているわけではない。どこかに余力を残しているような……。ひょっとして。森見登美彦には。できた……? 

 まあそんなことはどうでも良い。私が言いたいのはただ一つ。『四畳半神話体系』は若干のパワーダウンを起こしているのではないかということ。肥大化した自意識から解放されるのは人間としては良いことだが、小説家としては別の道具を見つけないといかんのではないだろうか。