不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

太陽と戦慄/鳥飼否宇

太陽と戦慄 (ミステリ・フロンティア)

太陽と戦慄 (ミステリ・フロンティア)

 創元から出た本だし、いかに鳥飼といえども、結構本気で書いてくるのではないだろうかと予想していた。で、これは裏切られなかった。ノリはいつになく真剣・深刻であり、ストリート・キッズ上がりの少年たちの至純さが、やがてテロルの狂気に呑み込まれて行く様を描き出している。なかなか興味深かった。
 とはいえ、不満というか欲求不満を感じてしまった。本格としての出来がさほどでもないというのが一つ。今ひとつは、少年たちの描写がどうにも余所余所しいところだ。
 前者については、犯人側の企み及び犯罪の進展がご都合主義であると共に、真相がわかっても《世界》の反転が弱い点であろう。あの手のトリック使われても、この筋立てだとああいうことにしか使えないじゃん。勿体ないし、惜しげもなく贅を尽くしたなんて言い訳もこれでは効きません。だってこれだけだもんなネタって。意味不明ですまん。
 後者についてはより重大な問題かと思う。ていうか作家的特質に直結しているっぽいので、扱いに困る。鳥飼否宇はこれまで、ユーモラスな味わいの物語を書きまくってきた。それらで一番良かった点は、キャラ自体が実にすっとぼけており、それを描く作者の筆は淡々としていた点だ。自爆覚悟で踏み込めば、否宇の筆はシンパシーを誘導するほどの内面直接描写を挟まず、外から見たキャラの奇態な言動に焦点を当て、それがいかに珍奇な味を醸すかは、その言動自体で語らせていた。で、作者はこれと同じ手法を、『太陽と戦慄』のような、深刻な味付けが必要と思われる作品にも使用してしまった。結果として立ち現れるのは、登場人物の狂った言動に過ぎない。その奥にあるはずの、青年の苦しみや悲しみ、刹那的な快楽や破滅的な思想は、我々読者が妄想を働かせない限り、作品内に存在しない。一人称の部分であってもだ。
 作者が描きたかったことが何なのか私には判断できないため、上記の見解は、明後日の方向に投石している可能性も高い。よって、出来不出来の判定も避けたいが、正直なところ個人的には食い足りなかった。深刻ぶったあざとい重さよりはもちろんマシなのだが。