不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

暗い広場の上で/H・ウォルポール

 ウォルポール初読。不勉強で申し訳ない。

 善と悪の対決を描く物語で、この手の話のご多分に漏れず、奇妙に倫理が露出する作品といえよう。しかしながら事件は非常に小さなもので、人死にが少し出る程度である。静かな緊張感と暗く幻想的な雰囲気が横溢しており、善悪それぞれを体現する登場人物は、いずれも主人公により客観的に描写されるが、筆致が妙によそよそしく、「善よ頑張れ!」という共感を読者に喚起しない。
 巫弓彦という名探偵がいたはずだが、彼にとっての《名探偵》を、ジョン・オズマンドにおける《善》と読み替えれば理解しやすいか? そんなことはありませんかそうですか。
 なおもしつこく北村薫にたとえると、『暗い広場の上で』語り手、リチャード・ガンは、姫宮あゆみのような位置にはない。姫宮は理想化された柔らかい共感と感受性をもって、名探偵を見届けようとする。リチャードはそうではない。彼の視線はもう少し冷たく、その存在に圧倒されつつもジョン・オズマンドを本質的には愛していない。ジョン・オズマンドと妻の関係性もかなり痛々しい。推測だが、北村薫本人が《私》として巫を描けば、こういった感じになるのではないか。そんな気がしてならない。

 だめだ意味不明だ。最近の読書感想が形に嵌った表現ばかりなのに気付き、変化をつけようと目論んだが、これじゃただの比喩厨じゃねえか。自分の知っている範囲に無理矢理話を引き付ける最悪の馬鹿。最低だ。吐き気がする。頭も痛い。やはり私は死すべき人間なのか。いやいや人間だなんてそんな大それた。

 ヒュー・ウォルポールが無茶苦茶うまいことだけは理解できた。他の作品もぜひ読んでみよう。