不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

膚の下/神林長平

膚(はだえ)の下

膚(はだえ)の下

 先般の上京時、「この人、神林長平読んでるんですよ。キモい」と指摘された。私は確かにキモいので否定できないが、なぜ私の言動ゆえキモいとは言わず、神林長平を持ち出したのか? 『狐と踊れ』『戦闘妖精雪風』『グッドラック』しか読んでいなかった当時では、これは理解できなかった。

 『あなたの魂に安らぎあれ』『帝王の殻』の後で、シリーズ続編『膚の下』を読んだ今なら、かの人の発言は理解できる。このシリーズのテーマは、人工物の魂である。思考でも精神でも自我でも存在意義でもない、より根源的なものとしての〈魂〉である。非常に重いテーマかと思われる。しかも、創造と被造物の意味まで問い始め、現実の世界では宗教の専門にまで、果敢に踏み込んでゆく。

 ここに何種類かの〈キモさ〉がある。

 まず、対象が人工物であること。人工物は2004年時点では、(恐らく)まだ精神も自我も魂も、そして人間に使役される以外の存在意義も持たない。よって神林がここでやっていることは、砂上の楼閣、泡沫の夢、現実世界で述べ立てても誰も全く相手にしないし、実際、いくら追求したところで完全に無駄なことである。にも関わらず彼は邁進する。キモい。

 第二に、〈魂〉にまで足を踏み入れること。それってもう宗教や自己啓発セミナーの領分だと思うが、作者の筆に迷いはない。キモい。

 第三に、創造と被造物の意味まで踏み込むこと。造物主=神と被造物の関係性にも当然触れられる。ここに至って確実に、物語は宗教色をも帯びてくる。キモい。

 そして決定的なのが、以上による追求の結果が、人間にほとんど遡及適用されないことだ。ほとんど全てが人工物のみで消化されてしまう。ストーリーを動かす物理的・社会的反応はともかく、人間の精神的反応はいかなる意味でも重要性を帯びない。人間の登場人物は、人工物を彼らなりに〈理解〉しようとする。当たらずとも遠からずのそれらは、読者の共感の呼び水として、辛うじて〈機能〉するに過ぎない。そして本シリーズにおける人間の究極的な存在意義は、それだけだ。キモい。

 ここに、叙情的な文体が追い討ちをかけてくる。人工物は人間とは違うから冷たく扱う、なんて態度を作者が取っていないのだ。そこにあるのは共感に近い。キモい。

 しかし、だからと言ってこのシリーズが駄作というわけではない。むしろ逆、間違いなく傑作だし、個人的にも好み。
 寺社仏閣、教会やモスクに行ったり、或いは他の宗教的事物(私の場合はミサ曲とか)に触れた時、厳粛な気分を引き起こされたりする。しかしだからと言ってその人が宗教キティだということにはならない。ほとんどの場合、そのような気分を巻き起こされても入信しようとはしないはずだ。また宗教説話、あるいは神話も、接するだけであれば色々と興味深いし楽しめもする。その宗教への思いとは別に、それはある。
 そのようなものと同様に、神林長平を楽しめば良いのだ。作家を気に入るのと、作品を賞賛するのと、作品の中心概念に魅入られるのは、それぞれ全く別のことである。それで何も問題はないと、個人的には考えている。

 もう一点、このシリーズは目立った特徴を持つ。シリーズが進むにつれ、全てが饒舌化・画然化するのだ。
 『あなたの魂に安らぎあれ』においては、ディックに似た曖昧な世界観が前面に出ていた。しかし『帝王の殻』にて、事物は明確に語られるようになった。テーマも同様で、より強く顕在化したのである。
 この流れに沿って、『膚の下』は凄いことになっている。ページ数が圧倒的に増えたのは、人工物の魂を求めて求めて求めまくらんがためである。しかも登場人物(と言うか登場アンドロイドだが)は、魂やら創造/被造やらのテーマそのものを、地の文のみならず複数でディスカッションさえする。それらを通じてテーマが深化する様は、まるで自己啓発セミナーのようだ。
 仄めかしや曖昧な表現は、ほぼ破棄されている。680ページ(大半が二段組)がほとんど全て、中心主題に一点集中。全てを説明し尽くさんがため、神林長平が全力を傾けているのは間違いない。前作から十四年、功成り名を遂げた第一人者が、なぜここまで必死にならねばならんのか。
 思えば、『雪風』→『グッドラック』も同様に、昔は行間にあったものまで明文化された作品だった。作品世界の全てをこの手で、解釈の違えようもなく言及し尽くそうという意気込み。鬼気迫るものはあるのだが、その分作者が読者を信用していないことにもなろう。ここ十数年で、作者に何があったのか。激しく知りたく思う。

 必読。