不壊の槍は折られましたが、何か?

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天城一の密室犯罪学教程/天城一

天城一の密室犯罪学教程

天城一の密室犯罪学教程

 宇宿允人という指揮者がいる。経歴を見れば一目瞭然だが、恐らく彼は朝比奈隆に関西楽壇を追い出された。そして関東においても、その厳しい姿勢が奏者の総スカンを食い、追放&無視の憂き目を現に見ている。強い怒り、いや怨念が彼の発言の節々に見て取れる。しかし彼は代わりに〈カルト〉を得た。

 天城一の「密室犯罪学教程・理論編」を読んで、私はそんな宇宿を思い出した。江戸川乱歩に対する天城の思いは、結局のところ強烈な怨念でしかない。その思いを剥き出しにする一方、彼は「密室とはトリックだけでは立ち行かぬ」と言う。しかし本当に最初からそう思っていたのだろうか? 坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの格言どおり、乱歩の称揚するトリック偏重路線を必要以上に排撃しただけではないのだろうか?
 結局これは実作を見て判断するしかない。
 そして「実践編」を読んだ私は思う。天城一が自称する「トリックだけではない」部分を読者が感得するには、たいへん強い電波が必要だ。或いは私の読解力が低いだけかもしれない。だが敢えて言おう。彼が作品に託したという様々な要素は、余剰物を一切排すような本格ミステリを完成させる過程で、全てが削がれてしまった。もちろん残滓はある。だがそれはあくまで滓だ。作品を読んだだけでは、とてもではないが気付けない。確かに各編はその無駄のなさゆえに〈全てを読み取れ!〉と読者に迫って来る。だが天城一の思い通りに、読者がそれらを再構成できる可能性はゼロであろう。
 更に付言すれば、読者の感想やリーディングを、作品外の発言によって指定しようとする試みは、作家として潔くない。たとえ「実践編」「理論編」と分けていたとしても。ここら辺に、幻の作家となった要因が見え隠れする。

 というわけで、私は表題作を非常に楽しんだ。
 しかし純粋に素晴らしいのは「毒草/摩耶の場合」であろう。こちらも無駄が過剰なまでに削られているが、物語に何らかの象徴性を持たせようとした姿勢までは削られておらず、後で作者がしゃしゃり出て来て解説する不手際もない。読者は自ら、何か裏の意味があるらしいと気付けるし、色々考えることもできる。何よりネタの数々も先鋭的で素晴らしい。特濃の本格ミステリが読みたい人にはお薦め。