不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

誰でもない男の裁判/A・H・Z・カー

誰でもない男の裁判 (晶文社ミステリ)

誰でもない男の裁判 (晶文社ミステリ)

 A・H・Z・カーは非常に特異な作家である。『誰でもない男の裁判』の場合、収録短編全編に〈奇妙な味〉が添えられるが、話の骨格自体は普通の本格であることがほとんどだ。二編ほど、本格どころかミステリでさえないものがあって、こちらは正当な〈奇妙な味〉系の話と捉えて構わないが……。
 冒頭の「黒い子猫」は、娘が可愛がっている子猫を誤って踏み潰してしまった父(牧師)が、罪と愛について懊悩する一編。謎も解決も当然存在しないが、主人公がラストで至るある種の〈悟り〉には、非キリスト教徒の私も思わず納得してしまった。

 「虎よ、虎よ!」は、主人公の脳裏に去来する同名の詩と、殺人事件の推理が同期してしまう一編。本格としては順当な作品だが、詩の併置が作品に〈奇妙な味〉をもたらす。

 表題作「誰でもない男の裁判」は噂に違わぬ強烈な作品。できるならば先入観を捨てて読んで欲しい。無理かもしれないが、山口雅也の有名な紹介も全て忘れちゃってください。

 「猫探し」は、題名通り猫を探すミステリ。そちらの出来もなかなかだが、猫が凶悪なまでに可愛い。これは反則、ずる過ぎます。小説を読んで珍しく萌えてしまった。不意打ちだったからかも知れんが。

 「市庁舎の殺人」は、一見、最初から最後まで普通の本格ミステリだが、どことなく変だ。毎土曜日に雨を降らす博士@市庁舎詰めってどうよ。ラストの余韻にも素晴らしいものがあり、個人的にはかなりお気に入り。

 「ジメルマンのソース」は珍しく法螺話オンリーの愉快な作品。ジェラルド・カーシュのカームジンものを想起した。

 「ティモシー・マークルの選択」は、しがらみと倫理の狭間で悩む作品。直前の「ジメルマンのソース」とは打って変わった非常に真面目な一編であり、幕切れのざらざらした後味がたまらない。

 「姓名判断殺人事件」は、活発なヒロインが想い人兼上司の濡れ衣を晴らすべく殺人事件を捜査する話。特に変な要素はない……と思っていたのだが、犯人を見抜く切っ掛けが割と珍しい類のもので、ここだけいい感じで浮いている。

 結論。晶文社のコレクション中でも上位に食い込む素晴らしい短編集である。オールド・ファンは必読。