不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

スペース/加納朋子

スペース (創元クライム・クラブ)

スペース (創元クライム・クラブ)

 駒子シリーズ最新作。実に十一年ぶりの続編となる。

 思うに駒子シリーズと北村薫の〈私〉シリーズ最大の相違は、主たる物語の主役が視点人物かどうかである。北村薫の〈私〉は、たとえ親友や近親者が事件の中心にあってなお、自らは観察者的な立場であり続ける。もちろん事件に関与することで、彼女が何らかの感想や情動を得ることはある。というか必ずある。しかし物語の中心に座るのは事件当事者の物語であり、北村薫が手を換え品を換え鮮やかに切り取って見せる〈人生の断面〉はあくまで事件当事者のものだ。〈私〉自身の成長の軌跡は、基本的に挿話・小噺のレベルにとどまる。極論すれば、〈私〉は物語から感想や情動を得るだけの存在に過ぎず、彼女に一人称を託すのは、読者が抱くべき感想を指定する試みに他ならない。
 駒子は違う。確かに、このシリーズにあっても、事件自体が彼女の人生に深く関与することは少ない。だが〈私〉シリーズと決定的に異なるのは、そこから影響を受け、駒子の生活が確実に変わってゆき、作者もそれをメインに描く点だ。駒子シリーズにおいて切り取られる〈人生の断面〉には、駒子自身ものが大量に含まれる。彼女は〈私〉と異なり、駒子自身が直接、読者の感想や情動の対象なのである。

 従って、駒子のピュアさをうざいと思うかどうかは、個々の読者の評価に決定的な影響を及ぼしてしまう。しかもこのシリーズ、回を追うごとに恋愛小説じみてきており、私などは、行き着く先は砂糖まぶしの劇甘の世界しかないと半ば諦めていた。

 しかし、不安はあっさり回避された。
 ここで加納朋子は、駒子による一人称という前提そのものを放棄した。この一冊における駒子物語のクライマックスは、他人の視点から語られる。さらにその〈他人〉は自分の物語を語るのに手一杯、駒子の物語を詳述する余裕がない。また、〈他人〉の物語も恋愛譚だが、あくまで過去への言及であるためか、全体に適度な抑制がはたらいているのも高く評価したい。

 もちろん、シリーズ完結までにはあと一冊残されている。次作で一人称に戻り、ラブラブ光線出しまくりになっていないよう切に望む。