不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

剣と薔薇の夏/戸松淳矩

剣と薔薇の夏 (創元クライム・クラブ)

剣と薔薇の夏 (創元クライム・クラブ)

 1860年6月のニューヨークを舞台に、訪米中の江戸幕府使節団に関係するかのような殺人事件が起こる。

 本格ミステリとしては、そもそもの犯人の計画に問題あり。ここまでマニアックなミスリードは実際には困難を極めよう。正直、無理だと思う。ところがこの小説では、その無理矢理な解釈を皆様なぜか当然のように受け止め、それを前提として解を組み立てる。非常に本格っぽい展開と言え、なかなか楽しいのは事実だが、ご都合主義的な弱点と看做さざるを得まい。トリックも少々弱いし、事件の謎も(大長編の割には)どこか地味。

 だがしかし、にも関わらず、『剣と薔薇の夏』は傑作である。

 この作品のキモは、当時のアメリカの緻密な描写にある。リンカーン当選間近、ということは南北戦争間近のアメリカにおいて、熱狂的に迎えられる遣米使節団。話はこの侍たちのニューヨーク訪問を中心に回るのだが、彼らは探偵役はおろか、事件に巻き込まれさえしない。漂流民としてアメリカで生活する日本人さえ同様だ。物語の視点は徹頭徹尾、米国人に握られており(一瞬だけ漂流民が視点人物になるが)、特に、主人公に該当する新聞記者は日本人を見つつも、結局のところ侍たちとそれにまつわる騒動を鏡として、当時のアメリカ人とアメリカ社会を見据える。物語の主題も「日本と米国の関係」「西洋と東洋の邂逅」なんてところにはない。この作品に立ち現れるのは、当時のニューヨークの活写であり、南北戦争間近の南北対立であり、産業構造であり、人種差別であり、奴隷解放運動であり、先住民対策であり、入植者問題であり、キリスト教文明であり、イギリスによる内政干渉の影であり、要するに当時のアメリカそのものなのである。これらは当然事件にも影響を及ぼすが、あえて言おう、事件などどうでも良い。この小説には、当時のアメリカ、少なくともニューヨークの全てが詰まっているように見える。素晴らしいのは、それが歴史的事実の紹介のみによってではなく、登場人物の言動という形で当時の人々の考え方を擬製し成し遂げられた点にある。これによって雰囲気が本物としか思えなくなっているのだ。台詞に「」をあまり付けない手法のみ、やや日本くさいかもしれないが。

 というわけで、綿密な描き込みが好きな方にはお薦めできる。