不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

ネロ・ウルフ対FBI/R・スタウト

ネロ・ウルフ対FBI (光文社文庫)

ネロ・ウルフ対FBI (光文社文庫)

 人は誰でも、いつの間にか老い、病み、そして死んでゆく。それがいつかは神(いるとしてだが)のみぞ知る。そして神は、知っていながら何もしてくれない。だから我々は、粛々とそして深沈と死に向かって歩まねばらないし、他人に不死や不老、そして永遠の健康を求めてはならない。老人には老人の、病人には病人の楽しみと生活がある。いつまでも元気に見えていた人でも、倒れる時は倒れるし、そのまま起き上がれない時もいつか必ず来る。生きるということは、即ちそういうことなのだ。
 私ももう老人であり、ここしばらくの業務負荷が心身に応えてならない。いっそのこと軽い狭心症でも起こすことができれば怠けられて嬉しいのだが。しかしやっちゃう時は、くも膜下とか心筋梗塞とか肝硬変とか、一気に命に関わる話になるんだろうねえ。

 ……以上、時事ネタに関わる発言だが、『ネロ・ウルフFBI』にも経年の影は見え隠れする。
 アーチーがちょっとおっさんなのである。もちろんこれは、一人称が代わり、読みなれた《僕》でなく《私》になったせいもあるだろう。専ら日本人の語学センス上の問題として、《僕》は《私》よりも精神的に幼い印象を受ける。しかし断じてそれだけではない。この作品において、アーチーは特に女性を相手にするとき、ほんの少しだが年齢ネタを持ち出す。自分と相手の年齢差を気にする素振りを見せるのだ。実態としても自覚が出るほど歳を取った、ということだろう。
 ネロ・ウルフは相変わらずなので安心できるけれども。

 作品の出来は、いつものレックス・スタウトとしか言いようがない。実際のFBIはこんなもんじゃないだろうが、この本を読むという行為の快適さは、リアリティーのなさを補って余りある。FBIと対決していながら、国家的なレベルのきな臭さをまったく感じさせないのは、反体制派とはいえ、スタウトもやはり老人であったのだろう。

 というわけで、今日もまたぐだぐだのまま眠ることにする。復調できません。