不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

久々のコンサート。

 地元のアマオケに行って来た。事前には日記ネタにする気はなかったのだが、何やら衝撃を受けてしまったので書くことにする。

 前半の、モーツァルトのコンチェルトは最悪であった。某プロオケからソロ奏者を招いており、彼の演奏自体は普通に楽しめた。問題はオーケストラ。コンチェルトなので伴奏は本来二の次だが、ここまで酷いと印象全体が悪化する。下手なのはわかりきっていたこととは言え、音の減衰が皆無、強弱の幅も付けられず、アクセントの付け方もなっていない。つまり弾き方が全般にベターっとしている。恐ろしいことに、古典派は曲がシンプルなので、以上のような欠点をカバーするものは皆無。演奏者の技量は丸裸となり、恥を晒していた。正直、ここまでモーツァルトが恐ろしい作曲家とは思わなかった。古典は凄いと演奏者はよく言うけれど、つまりはこういうことであったか。今後、アマチュアの古典派には特に注意するとしよう。

 後半のブラームス交響曲第四番は、更に色々考えさせられた。なんと実に素晴らしい演奏だったのだが、上記の欠点はそのままだった。では何が変わったかというと、その解釈である。実に剛直で荒々しい音楽が現出していた。本来、この曲はもっと優美で憂愁に満ちた、繊細なものだと思う。だから、あの演奏をもってブラームスが聴けたとは、私は爪の先ほども思わない。だが何やら凄い勢いに圧倒され、感動に近いものさえ味わってしまった。多分これは確信犯である。指揮者も演奏者も、この曲がこういうものだとは考えていないだろう。だが、自分たちの拙い技量でいい演奏をするには、この道を辿るしかないと開き直ったのだろう。新発見は、ブラームス交響曲第四番が、このような粗暴な解釈にも耐えたということ。こんなに〈強い〉曲だとは思っていなかっただけに、非常に意外であった。

 そして、《アンネン・ポルカ》という馬鹿げたアンコールのため、本プロの余韻は破壊されてしまい、なんだかなあと思いながら家路に着いたわけだ。本当に、アンコールというのは難しい。なくていいんじゃないの?