不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

カラスの親指/道尾秀介

カラスの親指 by rule of CROW’s thumb

カラスの親指 by rule of CROW’s thumb

 闇金業者を内部告発して娘を亡くした過去を持つ武沢は、なぜか彼を慕う男テツと一緒に、詐欺師稼業に勤しんでいた。やがてひょんなことから、スリ少女まひろ、彼女の姉やひろ、その彼氏貫太郎も仲間に加わる。武沢は、やひろ・まひろ姉妹の母親が、昔の自分の厳しい取立てに耐えかねて自殺した女であったことに気付いたが、打ち明けかねていた。そんな武沢たちの周囲に、摘発されたはずの闇金業者の影がちらつき始め……。
 本書の基調をなす、洒脱かつどこか空とぼけたやり取りは、伊坂幸太郎を思わせる。何らかの小噺やキーワードに主題や人物を象徴させるところも、伊坂の作風と共通している。さらに、コン・ゲーム小説である(しかも主人公たちは下流市民に属する)ことも、伊坂の一部作品との共通点となるだろう。しかし当然のことながら、『カラスの親指』には道尾ならではの要素もあり、二番煎じなどでは全くない。主人公たちはそれぞれに過酷な体験を経てきたわけだが、一致団結して共通の敵と対決し、これが最終的に彼らの救い・癒しとなって昇華されていく。道尾秀介の持ち味そのものであるし、ストーリー通して施された仕掛けが有機的に関与するのもまた実に「らしい」。さらに、誰もが指摘することだが、終盤の心憎い構成によって、読者の心に真相の温かさが染み入るだろう。おまけに、読了するとタイトルの意味に唸らされるのだ。二重三重のミステリ的要素は、今回もまた「人間を描く」という大命題に貢献しているのである。
 個人的には、そろそろ残酷な物語が読みたくなってきたのも事実である(道尾秀介は、『向日葵の咲かない夏』に浴びせられた、一部の批判を真に受け過ぎているのかも知れない)が、『カラスの親指』が作者による技ありの良作であることは間違いない。おすすめです。

フロスト気質/R・D・ウィングフィールド

フロスト気質 上 (創元推理文庫 M ウ)

フロスト気質 上 (創元推理文庫 M ウ)

フロスト気質 下 (創元推理文庫 M ウ)

フロスト気質 下 (創元推理文庫 M ウ)

 デントン署の管区内では「ゴミの中から少年の死体を発見」「別の少年が失踪」「幼児たちが連続して刺傷を負わされる」「少女の誘拐」「身元不明の腐乱死体が発見」などの事件が続発していた。しかし捜査を指揮すべき幹部連は出払ってしまっており、休暇中のフロストが担ぎ出されることになった。しかもフロストを憎むトム・キャシディが警部代行として臨時に赴任して来た上に、フロストとキャシディの補佐役として割り当てられたのは、出世意欲と鼻っ柱の強いリズ・モードだった。
 やはり白眉はフロスト警部その人である。下品なジョークを飛ばしつつ、系統立ったとはとても言えない捜査をおこなう彼の奮闘は、それだけで非常に面白く読める。相変わらずワーカホリックではあるが、休みたいのも事実のようで、一人で罵声を上げるシーンが多いのには笑った。もちろんフロストだけではなく、キャシディやリズ、マレット署長、その他の警官たちも(嫌な面も含めて)活き活きと描かれており、デントン署の活気が鮮明に伝わって来る。彼らがふとした拍子に見せる、人情やしんみりとした表情も味わい深い。各事件の関係者も負けておらず、様々な人間ドラマを展開して読者を魅了する。ウィングフィールドのキャラクター造形のうまさは、やはり只事ではないのである。素晴らしい。
 さて『フロスト気質』は、既存三作に比べて展開がシンプルだ。全事件の情報が入り乱れて現場が混乱する、といったようなことはあまり起きない。もちろん捜査は並行して進展するが、各事件が同時にピークを迎えるといったようなことはなく、捜査陣も読者も、とりあえず事件毎に考えを巡らせる余裕がある。混迷を極めるモジュラー型小説として売って来た当シリーズの中で、本書は比較的スムーズに流れる作品といえよう。とはいえ各事件内容はよく練られており、ミステリ的な興味も(ガチガチの本格ミステリや、突飛な真相といった無茶な期待をしなければ)満たされるはずだ。
 いずれにせよ、どう転ぼうが十分に面白いことは保証したい。ウィングフィールドは今回も流石の貫禄を見せているのだ。もちろん、全ミステリ・ファンにおすすめしたい。

鎮魂歌は歌わない/ロイ・ウェイウェイオール

鎮魂歌は歌わない (文春文庫)

鎮魂歌は歌わない (文春文庫)

 娘を殺された自堕落な男ワイリーは、友人レオンと共に復讐のため立ち上がる。だがその犯人の周りには、FBIの捜査官らしき人物が……。
 私立探偵小説ではないし、人間関係の解釈を読者に委ねるようなところがあり、また主人公の本書における行動原理が信念ではなく娘への贖罪の念に基づく。よってハードボイルドと言われると違和感を覚える向きは少なくないはずだ。しかし作品の焦点は終始主人公の内面に合わされており、この点では読み応え十分の作品なのである。
 ワイリーは何かを亡き娘のためにしたことにしよう、いやしたい、という狂おしい思いに突き動かされている。ここが本書最大のポイントだ。「正しい」親のあり方としては、そんなことは日常的にやって当然である。売春婦まがいのことをやらかし、挙句モーテルの一室で惨殺されるような人間に子を育てた責任の一端は、間違いなく親にもある。よって、このダメ親父が何を今更、などと批判することは十分可能だろう。しかしここで思い起こして欲しいのは、人間はいつも「正しく」あれるわけではない、ということである。大きな過ちを犯しながら目を逸らし続け、遂に取り返しの付かないことになって深く後悔する――そんな経験など絶対にないし今後も死ぬまであり得ない、普通の人間ならそれができて当たり前、できない奴などあり得ないほど低能に違いなく、そんな人間を小説の主人公に据えるのはおかしい、という主張が「正しい」のであれば、本書はまがう方なきゴミということになろう。しかし人間は間違う。間違い続ける。気付いても逃避する。挙句後悔する。そして、後悔するだけで終わる人間もいれば、本書の主人公のように、後悔して初めて何らかのアクションをとる人物もいるのである。
 ワイリーは、最初は破れかぶれだが、しかし次第に決然とした態度を取り戻し、復讐を成し遂げんとする。もちろん肝心の娘が死んでいる。それも、ワイリー自身は彼女を放っておいたのだ。事ここに及んでは、何をやっても自己満足であり欺瞞ですらあるかも知れない。しかしここには、「正しく」はないかも知れないが、紛れもなく切実で悲愴な足掻きがある。私としては汲んでやりたい。
 この他、殺人犯が一人称で投げやりな人生観を披瀝するパートも随所に挟まれ、効果を挙げている。事件の背景が最初からほぼ丸わかりであるなど、若干物足りない点はあるが、人物描写がこれをカバーし、いい小説になっていると思う。軟弱でも剛毅でもなく、派手でも地味でもない作品なので薦め方が難しいが、人間の強さと弱さ、そして何事も合理的には進まないという現実の虚しさを見つめたい人には一読の価値はある。