不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

フィルハーモニア管弦楽団来日公演(東京1日目)

東京芸術劇場 14時〜

  1. サロネン:ヘリックス
  2. チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲ニ長調Op.35
  3. (アンコール)J・S・バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番BWV1004よりサラバンド
  4. シベリウス交響曲第2番ニ長調Op.43
  5. (アンコール)シベリウス:劇音楽《ペレアスとメリザンド》Op.46より《メリザンドの死》
  6. (アンコール)シベリウス組曲《カレリア》Op.11より《行進曲風に》
  7. (アンコール)シベリウス:劇音楽《クオレマ》Op.44より《悲しきワルツ》

 一曲目はサロネンの自作自演。曲は「約9分間のアッチェレランド」で、戦後60年を期に依頼された曲だという触れ込みの割には、オーケストラのショウ・ピースとしての色が濃い曲だと感じました。現代音楽らしく、いかにもなメロディーはありませんが、だからと言ってセリーのように「聴いているだけの人間では理解がほぼ不可能」といったものではなく、生理的な快感に身を委ねいても致命的な問題は生じない類の音楽。サロネンの他の作品もちょっと聴いてみたくなりました。なお演奏は、いきなり技量全開とまでは行きませんでした*1が、オーケストラの高いポテンシャルは実感できる演奏だったと思います。フィルハーモニア管弦楽団を聴いたのは今回が初めてですが、弦を中心に、ハイ・クオリティのオーケストラだったように聴こえました。木管金管も打楽器も見事で、穴のパートがなく安心して聴けるのが素晴らしい。
 続くコンチェルトは、さすがにハーンの独壇場。テンポのギア・チェンジが聴き慣れているものとは異なっていて、随所でおやと思わされました(ひょっとして使ってる楽譜の問題?)。しかしそれ以外の点では、真っすぐにこの名曲に挑んだ正統派の演奏になっていたと思います。心持ち遅めのテンポでどっしり構えて、フレージングや音色で魅せていました。「私ってこんなに弾けるのよ」と弾き飛ばすようなテクニック強調をあんまりやってないのも好感が持てます。とはいえ、東京芸術劇場のあの巨大な空間を満たす音を、あの小さなヴァイオリンから十全に引き出していたのですから、当たり前ですが技術がないわけではありません。むしろ確実にその反対。アンコールのバッハも素晴らしかった(ヴィブラートは若干付けてましたね)。なお、サロネンフィルハーモニア管弦楽団がハーンにぴたりと付けていたのも印象深かったです。そしてソロを立てつつ、随所ではっとするような表情を付けていました。
 後半のシベリウス交響曲は、北欧云々というイメージに縛られず、もっと普遍的な音楽を目指したものでした。音色的には中庸を行くフィルハーモニア管弦楽団を駆使して、後期ロマン派(ただし非独墺)の交響曲がとても立派に鳴らされていました。楽曲の俯瞰はほぼ完璧、この曲は何がどうなっているのか、手に取るようにわかります。しかし分析のため流れが停滞する、なんてことは一切ありません。むしろ常以上の推進力が楽曲には与えられ、実に自然な、しかし徹底的に豊饒な音楽が目の前で展開されていきます。この曲は最初の一音からテンション高めでしたが、楽章が進むにつれてさらにそれが高まり、フィナーレのコーダは金管群の神業もあって、感動の一言でした。しかしどんな場面でもサウンドのバランスが最良だった辺り、サロネンはやはり只者ではありません。フォルムも絶対に崩れなかったし、なるほどこれは名指揮者です。思えばこの指揮者で絶対音楽聴くのは今日が初めてですが、これは唸らざるを得ない。終了時には爽快感すらあって、しみじみいいコンビだと感心した次第です。
 アンコールは実に三曲。さすがにこんなに要らんような気はしましたが、《悲しきワルツ》はちょっと面白かった。なぜかというと、過日のデュトワフィラデルフィア管とは全然違うんですよね。サロネンデュトワも、オーケストラのコントロール(良い意味でのバランスとり)が得意な指揮者で、かつ楽譜を越えて表題性を求めないタイプだと思われるんですが、デュトワの方は《悲しきワルツ》をオーケストラの機能美で聴かせていた(あんまり影を感じさせず、ひたすら華麗に演奏していた)一方、サロネンは同じく流麗ではあるんですが、暗く悲しげな雰囲気を出していました。二人の指揮者の方向性の違いが、実演ではっきり確認でき、得るところ大でした。
 帰路、階段のところには(たぶんハーンの)サイン会待ちの長蛇の列ができていました。200人ぐらいはいたんじゃないかなあ。毎度毎度お疲れ様としか言いようがない。

*1:後半のシベリウスを聴いた後から考えての結果論であることは、お断りしておきます。