ロッシーニ・オペラ・フェスティバル来日公演(東京4日目)
オーチャードホール:14時〜
- グレゴリー・クンデ(オテッロ)
- イアノ・タマール(デズデーモナ)
- ミルコ・パラッツィ(エルミーロ)
- ブルース・スレッジ(ロドリーゴ)
- フェルディナント・フォン・ボトマー(ヤーゴ)
- マリア・ゴルツェフスカヤ(エミーリア)
- エンリーコ・イヴィッリア(ルチオ、ゴンドラ漕ぎ)
- コジモ・パノッツォ(総督)
- プラハ室内合唱団(合唱)
- ボルツァーノ・トレント・ハイドン・オーケストラ(管弦楽)
- グスタフ・クーン(指揮)
- ジャンカルロ・デル・モナコ(演出)
ロッシーニの《オテッロ》とはこれまたマイナーな演目をチョイスしましたね。シェイクスピアの原作に相当の変更を加えています。ハンカチがないとかあり得ないだろ。また、本日上演されたのは悲劇版でしたが、何と最後にデズデーモナが甦るハッピー・エンド・ヴァージョンもあるらしい。何という魔改造……。
演奏内容は、歌手がそれなりに頑張っていてそれなりに楽しく聴けました。このオペラは聴かせ所の多いテノールが3人必要なので(題名役、ヤーゴ、ロドリーゴ)、なかなか上演されないのですが、いずれも及第点。そりゃもっと上を望むこともできますが、費用対効果を考えなければ、十分な水準にあったと言えるでしょう。オテッロは技巧よりもパワーで押し切っていた感じは受けましたが、雰囲気は良く出ていたのでOK。女声陣二人も良かったです。デズデモーナはレチタティーヴォ関係がやや大味でしたが……。
問題は指揮。ロッシーニは深刻な場面も長調でサラサラ流すことが多い*1ので、ピンと張った緊張感が要求されると思うんですが、グスタフ・クーンは朗らかに流してしまう。弛緩とまでは言いませんが、舞台上のやり取りは愛憎に満ち満ちているのに、音楽が長閑。何とかならんものかと思いながら聴いておりました。で、ここら辺でのタメが聴いていないので、クライマックスでもカタストロフがいまいち。うーん……。この指揮者は危険牌だな。
舞台は簡素なもの(画像参照)。これで全幕全場通してました。9箇所あるドアはドア枠ごと取り外し可能で、随時人力操作でズズイと前に出て来ます。登場人物の出入りは、ドアが前に出て来ているときでも、必ずこのドアを開閉して部屋への出入り等を表現。
さて全体的に、人物がよく動く演出でしたが、その意図を掴みあぐねました。中央奥のベランダは、総督の指定席であるとともに(まあ総督は偉い人なんでこれはわからなくもない)、エルミーロ(デズデーモナの父)やヤーゴが各1回ここに陣取った意図がよくわかりません。支配または操りを表現したってことでしょうか? そう言えばヤーゴと同じ格好した黙役がいっぱい出て来てたなあ。ヤーゴが全体を操っていた、ということを示したかったのでしょうか? まあ音楽の邪魔はしてなかったからいいか。でも、機器類なのか空調なのか、ずっとファンの音がしていたのは大減点ですな。演出サイドの問題かホールの問題かわかりませんが、とりあえず言っておこう。馬鹿じゃねえのか。
というわけで、総じてグスタフ・クーンと謎の機器のせいでグダグダになりました。残念至極です。