不壊の槍は折られましたが、何か?

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ウォリス家の殺人/D・M・ディヴァイン

ウォリス家の殺人 (創元推理文庫)

ウォリス家の殺人 (創元推理文庫)

 妻子にほぼ見捨てられた歴史学者モーリス・スレイターは、今をときめく有名作家ジョフリー・ウォリスと兄弟同然に育てられた過去を持つ。しかしモーリスは、父母の実子である自分が鳴かず飛ばずの学者にしかなれなかった一方、ジョフリーが大成して大金持ちになったことに対し、曰く言いがたいわだかまりを覚えていた。そんなある日、モーリスはジョフリーの屋敷に招かれる。ジョフリーの妻ジュリアは、そこで最近夫の様子がおかしいと訴える。どうやらジョフリーは、長年音信不通だった実兄ライオネルから脅迫を受けているようなのだ。一方ジュリアは、折から持ち上がっていたジョフリーの娘のアンとモーリスの息子クリスの恋愛と婚約に、相変わらず反対の立場を崩さない……。
 タイトルに示されるとおり、本書で起きるメインの事件は殺人である。周到な伏線と堅牢な謎解き(厳密なロジックとまでは行かないが)は十二分に水準を満たしており、ややシンプルかつ軽量級ではあるが、本格ミステリとしてもなかなか高く評価できる。しかし本書でもっと強く印象に残るのは、「ヤな話」としか言いようがない緻密な人間ドラマである。一人称の主人公モーリスは、前述のとおりジョフリーに複雑な感情――はっきり言えばコンプレックス――を抱いている。そしてモーリスは、ジェフリーに関係する事物を一々悪意的にしか解釈できない体になっているのだ。作者は狡猾にも、それを端的に言い表すセンテンスやフレーズを全編にちりばめている。登場人物に他の登場人物を悪し様に罵倒させることなど誰でもできる。しかし一人称の主人公自身にも自覚がない「色眼鏡」の存在を浮き彫りにするのは、比較的難易度の高い技だ。ディヴァインは臆することなくこれに挑み、モーリス自身にも自覚がない一方的悪意と偏見をそこかしこで見せ付ける。読者はその度にドキリとすることになるのだ。これは素晴らしい。
 モーリスの色眼鏡を排して物語全体を見渡しても、実にイヤな人間模様が広がっている。それが一体どういうものかは実地に読んで確認してもらいたいが、主人公モーリスは息子クリスに憎まれていて、それはモーリスの元妻がクリスに、離婚したのはモーリスが浮気したからだと嘘を吹き込んでいるからである。ところが実際の離婚原因は、元妻の方の浮気なのだ。しかしヘタレもしくは諦観の強いモーリスは、これを特に訂正しないが、きっぱり割り切りもせず、ずっとウジウジしているのである。どうです、イヤな関係でしょう。ウォリス家の事情も、事件内容に直結するためあまり書けないが、素晴らしくヤな感じであることを保証しよう。本格ミステリ・ファンはもちろんだが、ヤな人間模様を見るのが大好きな人には必読である。