不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

暗号名サラマンダー/ジャネット・ターナー・ホスピタル

暗号名サラマンダー

暗号名サラマンダー

 1987年、テロ集団《ブラック・デス》は国際線旅客機エール・フランス64便をハイジャックする。犯人たちは、途中で子供のみを解放したが、結局、残る大人の乗客もろとも機体を爆破する……。13年後、解放された子供たちの一人だったサマンサは、同じく生存者たちと「フェニックス・クラブ」を結成して事件の謎を追っていた。彼女は、更に調査を進めようと、同じハイジャック事件で母親を亡くした(ただし本人は乗客ではなかった)ローウェルに連絡を取ろうとする。しかしちょうどその頃、アメリカ政府機関職員であったローウェルの父親メイザーが不審な事故死を遂げる。メイザーは、ローウェルにビデオ・テープと暗号化された文書を遺していた……。
 陰鬱な、あまりにも陰鬱な、衝撃の小説である。登場人物、筋立て、真相、テーマなど、あらゆる要素がとにかく暗い。作者は9.11を受けて、当時第一稿が完成していた本作を全面的に書き直したようだ。その結果か否かはわからないものの、作者はここでテロと謀略を《現代の黒死病》と捉え、底知れない絶望感を全編に染み渡らせている。全ては灰色に塗り固められ、しかる後、漆黒の闇に沈められるのである。
 疫病が作品世界にどうしようもない絶望をもたらす作品といえば、私は即座に某女性SF作家のアレ(長編)を思い浮かべるのだが、あちらはまだ救いがあったし、そもそも常に暗いというわけでもない(ページ数から言えば、明るいコメディ・タッチの場面の方が多い)。更に、悲痛なクライマックスを経たラストにおいて、主人公と我々読者はあくまで《生者》の立場から《死者》を悼むことができた。しかし、『暗号名サラマンダー』は、のべつまくなしに暗いうえに、主人公や読者に《生者》としての視座すら許さない。登場人物と読者は、生死すら一切問われず、ぽっかり口を開けた虚無の中に放り込まれる。本作における疫病は、過去のものでも、地域のものでもない。9.11以後の世界に重くのしかかる、死の影そのものなのである。
 そして、『暗号名サラマンダー』という絶望的な物語は、クライマックスにおいて、笠井潔の大量死論を地で行くような、テロの被害者に特権的な死を与えようとする衝撃的な展開を見せる。だが、これすらもが何ら救いにはならないのだ。ホスピタルが、虚無なる死への精一杯の反抗として、登場人物に特権的な死を与えようと足掻けば足掻くほど、我々はその背後にリアルに存在する虚無を、強く意識せざるを得ないからである。
 このように、『暗号名サラマンダー』は、読者にとって、徹底的に逃げ場のない小説だ。むろん傑作。覚悟して読むべし。鬱の時は避けましょう。