不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

雨の恐竜/山田正紀

雨の恐竜 (ミステリーYA!)

雨の恐竜 (ミステリーYA!)

 20年前に恐竜の化石が発見され、近くの手長層群がその宝庫であることがわかった、福知県K**市東谷町。そこに住む14歳のヒトミは、幼い頃恐竜の背中に乗り、サヤカ、アユミと一緒に遊んだ幻影のような記憶があった。しかし現在では彼女たちとはすっかり疎遠となってしまった。そしてある日、化石発掘現場近くの吊り橋で、中学校の国語教師が死んでいるのが発見される。近くには恐竜の足跡が! まさか教師は恐竜に殺されたというのだろうか?
 60の声も近いおっさんが書いた、女子中学生を語り手に据えた青春ミステリ! などと言われると引いてしまうのが人情であろう。あとがきで「どうやら、わたしのなかには十四歳の少女が存在するようなのです」などと書かれたら、余計にそう思う。しかしこれが傑作なのである。
 中心テーマは、現状への《不満》と《反抗》だ。ヒトミ・サヤカ・アユミはそれぞれの事情から、現状へ不満を抱き、ときに諦め、ときに反抗しようとする。しかもその闘争はまっすぐなものではない。彼女たちは大概鬱屈しており、作品に爽快な雰囲気はついぞ訪れない。その熱い刃は、事件や大人たちのみならず、本格ミステリへも向けられる。下手に恋愛要素を絡ませないのもプラスに働いており、また無理して当世風の言葉遣いをさせていない*1ことも、特段の違和感なく物語と人物に入り込める要因となっている。
 山田正紀は『神狩り』以来、《不満》と《反抗》を長く追求し、様々な作品をものしてきた。しかしこの《反抗》は、反抗のための反抗であって、成功した暁に何を望み作るのかというヴィジョンが本人にないことが多い。『雨の恐竜』もまた同じである。確かにヒトミ・サヤカ・アユミは各自夢を持つ。夢のために現実に反抗するという構図ですらある。しかし、その夢の実現に向けての青写真に関して、山田正紀の筆は曖昧だ。しかしこの熟慮を欠いた闇雲な反抗は、だからこそ、思春期の少年少女という(作者の実年齢とはかけ離れた)登場人物に流し込んでも、それほどの違和感が出ない。結局、山田正紀という作家は、老成や円熟といった概念とは無縁の、反抗の闘士なのかも知れない。そして、《反抗》だけであっても、人は成長することができる。詳しくは語らないが、三人の少女は、最終段階では大人たちを対等の存在として、その強さと弱さを認めている(許しているわけでもないのが心憎い)。それは、紛れもなく成長であった。いたく感心したことを付言しておきたい。
 もっとも、実際の若年層読者が読んで本当に違和感がないか否かは、判断が難しい。彼らは、こんな奴いねーよとあっさり却下するかも知れない。しかし、青春小説でありがちな明朗な光景を広げず、その鬱屈を描き切った作品から、我々おじさんおばさんが得るものは大なのである。我々はついつい、青春小説に爽やかなものを望んでしまう。だが青春とは、より多面的なものである。若者には若者の悩み、惑い、昂り、歪みがある。我々自身、当時はそう思っていたはずだ。だが記憶は時が経つと薄れ、過去の人生は単純化される。かくて我々は、14歳の頃を懐かしく思い返すのだ。しかし、そのような誤魔化しを撥ね付け、57歳の山田正紀は14歳を痛切に描いた。そこに感心するのもまた、おじさんおばさんの我侭であると許してほしい。
 ……とこのように考えると、『雨の恐竜』において、14歳の若い登場人物たちが、さらに若い時代の《恐竜と遊ぶ幼年期》を懐かしく思い返すのは興味深い。結局、人は何も変わらないのかも知れない。お薦めです。

*1:舞台が架空の田舎町であることも大きい。たとえば渋谷辺りが舞台でこの言葉遣いだとちょっと違うと思うし、具体的な地方都市であれば方言が皆無なのも違和感が出よう。