不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

九月の恋と出会うまで/松尾由美

九月の恋と出会うまで

九月の恋と出会うまで

 恐らくヘテロだろうがホモだろうがバイだろうが、そして交際相手の有無にすらかかわらず、恋愛感情は誰にでもあるものであり、かつ非常に卑近なものだし、盛り上がってしまえば、人格の核に近いところを占領してしまうことすらある。恋愛経験もまた、その成否にかかわらず、誰もが持っていることだろう。
 ゆえに読者は、恋愛小説を読む際、《自分の恋愛態様》を作品評価に過剰に結び付けてしまいがちである。しかし、作品に含まれる政治信条とは無関係に小説の評価が確立されるべきなのと同様、読者個々人の恋愛観とは無関係に、恋愛小説の評価もまた確立されるべきなのだ。評価と個人的恋愛観を混同しないよう、特にマイナス評価を下してしまいそうになる局面では、一度立ち止まって冷静な自問が求められる。さらに、プラス評価をおこなうにしても、それを他人に言う場合は、「キャラに感情移入できる!」だけではなく、もっと別のより説得力の高い言葉を用意すべく、少なくとも努力はすべきだろう。
 以上は、年齢層にも性別にも、また読書量にも関係なく、あらゆる読者に対して提言したいことである。
 さて『九月の恋と出会うまで』は、恋愛要素が強く打ち出されるSFミステリだ。舞台となるのは、クリエイター的な趣味を持つ人々のみが住んでいるアパート。住人は4名だが、彼らのうちクリエイターであることを生業とはしているのは、オーケストラ団員の倉だけである。他の3名は全く別の職業を持っており、自分の趣味で出世するような野望も希薄だ。また倉にしても、単なる楽団員に過ぎず、文化的なことを仕事にしているだけとも言える。さらに、倉に限らず、住民たちが自らの趣味への拘りを見せるシーンはほとんどない。その他言動から見ても、彼らは特殊な芸術家ではなく、どこにでもいる一般人に過ぎないように見える。ここら辺は、辻村深月の『スロイハイツの神様』で、スロウハイツの住民たちが「クリエイターらしい」奇特で神経質な行動態様を誇っていたのと比較すると、まさに対照的といえよう。この差異は、あるいは松尾由美辻村深月の経歴の差によるのかも知れない。前者は元OLであり《社会経験》がある一方、後者は学生からほぼそのままデビューした、いわば純粋培養の作家である。彼女らにおいては、《創作》に対する思いや《創作者》のイメージが、相当異なっているのではないか。善悪の問題では全くないが、作家の特性を考える上では興味深い事実である。
 さて、かように一般的な住民の一員である主人公は、ある日エアコン用の壁の穴を通して、謎の男(自称の仮名はシラノ)と時間を越えた対話を交わすようになり、彼から隣室の男の尾行を要請される。理由は全然話してくれない。そして、暫くすると熊のぬいぐるみすら喋り始める。一体これは何なのだろうか……?
 まず賞賛すべきは、タイムパラドックスを綺麗に収集している点だ。これは絶賛しておきたい。ミステリ的な手法もうまく用いられており、謎と仮説、そして真相のバランスがなかなかに良い。ガチガチのハードSFではないので、ある程度の《遊び》はあるものの、多くの読者を納得させるには十分な水準に達している。そしてやがて、主題は件の《恋愛要素》に移る。この点について個人レベルでは、女勝手過ぎとか男妄想強過ぎ(というかお前らホントにそれでいいのか!)とか、色々思うところはあるが、作中で事前にはっきり提示された男側の《浪漫》が後でしっかり生きて来るのは、実にうまい。また、この《浪漫》について、女性側が、何というか男にとって実に都合の良い感じ方をしてくれるわけだが、作者が女性であるという事実により、嫌悪感を抱かれる危険性は低下している。人物造形による心理的伏線が綺麗にまとまっているとも思う。
 この作品で主人公と相手の男が示す恋愛観を基盤とするという前提条件に立てば、恋愛小説としても高く評価できるはずなのだ。そしてこの前提条件は、そもそもそれほど無茶とも思えないし、作者の独り善がりと指弾するには作者があまりに丁寧である。
 というわけで、総合的には、完成度が高い上に気持ちよく読める佳作となろう。『雨恋』より気に入る人も多いはず、広くお勧めしたい。