不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

夢盗人の娘/マイクル・ムアコック

夢盗人の娘―永遠の戦士エルリック〈5〉 (ハヤカワ文庫SF)

夢盗人の娘―永遠の戦士エルリック〈5〉 (ハヤカワ文庫SF)

 1934年、白き肌とルビー色の瞳をもつフォン・ベック伯爵ウルリックの城に、SS将校となった従兄のゲイナー公爵が訪ねてきた。ゲイナーは、ベック家の家宝「黒の剣」レーヴンブランドをヒトラーに渡せと要求するが、ウルリックはこれを拒否。彼は直ちに収容所に連行され、拷問を受ける。しかし反ナチ組織に属するウーナという娘の助けで脱走したウルリックは、敵の追撃をかわし、地下世界ムー・ウーリアへと逃れる……。
 ワーグナーの歌劇(楽劇含む)、特に《パルジファル》が遠くで妖しく揺らめく中、第2次世界大戦は《法》と《混沌》の戦いの一環として解釈される。冒頭の、両大戦間のドイツという舞台に流れる、退廃的な雰囲気も素晴らしい。ウルリックの倦怠感溢れる一人称で語られるのが効果を倍加しており、エロスなき皆川博子といった様相さえ呈する。異次元での冒険も、筆がのびのびとしており、表現等も美しく、ムアコックが作家として深化していることは明らかだ。《法》の側の神とその尖兵が、初めて真っ当に扱われたことも感興を高める。というわけで、紛れもない傑作といえよう。正直、旧シリーズとはレベルが違うと思われた。
 しかし以上の全てといえども、エルリックまたは彼の現世における分身である貴族ウルリックが、ストームブリンガーナチスの皆さんをばったばったと斬り倒す、シュール極まるおバカな場面の前では為す術がないのだ。他にも呆然とするシーンがいくつか用意されており、《エルリック・サーガ》と第2次世界大戦を強固に関連付けるその無茶は、エルリックに隠し子がいたネタさえ塵芥にしてしまう。いやあ、彼がこんなに素敵なおバカ作家だったなんて、全然知りませんでしたよ。ムアコックご乱心! と黄色い声を上げておきたい。
 なお、ドイツでナチスを斬り倒すわけだから、黒き剣を振るいながら呼ばわる神の名はドイツ語読みされねばならない。訳者は、恐らくこのためだけに、既存ファンの意向(というか慣れ)を無視して今まで「アリオッホ」と訳し直してきたわけで、私は井辻朱美のこのおバカな労苦を絶賛するものである。