不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

邪魅の雫/京極夏彦

邪魅の雫 (講談社ノベルス)

邪魅の雫 (講談社ノベルス)

 最初の数百ページは、「京極夏彦にしては」という(近作の評でよく見かける)常套句を使うまでもなく、地味にゆるゆる進む。その後に盛り上がってきてからも、京極夏彦にしてはテンションや密度が低い。読者に対する訴求力も強烈とまでは言えず、各ページを句読点で終わらせることにより、展開のリズムも阻害されている。従って、800ページ以上あるこの大長編を一気読みすることは、誰にとっても困難だろう。さらに、憑き物落としがもはや名探偵による謎解きでしかない、関口・木場・榎木津はじめ、キャラクターの動きが今回はかなり常識的なものに近く、事件内容も一見それほど狂っていない通常の連続毒殺事件であって派手さに欠ける、警察小説(かなり歪んではいるが)としても読めるなど、どんどん普通のミステリに近付いてきた。終わってみても基本的にはまともなミステリだったなあという印象を拭えない。以上の全てまたは一部は、京極の変化と考えられる。しかしこれが作風の過渡期なのか劣化なのかについては、私はまだ答えを出せないでいる。予測するにこれに関する判断は、少なくとも向こう10年程度保留せざるを得まい*1が、少なくとも、彼独自の新境地を開闢する方向に向かっていないことだけは確かだ。この先にオリジナルの世界は広がっていない。普通のミステリが転がっているだけなのである。ミステリ界または本格ミステリ界の全体を俯瞰する視点に立てば、これは京極夏彦の退歩と断じて差し支えあるまい。もちろん、それが良いのか悪いのかは、今後の作品の質(方向性ではなく)にのみ掛かっている。1994年夏の目眩めくひとときを生涯忘れないだろう者の一人として、彼の動静を今後も注視したい。
 で、『邪魅の雫』を物語単体で見れば、間延びのきらいなしとはしないが、十分に練られた良作と言える。期待値を上げ過ぎると物足りなく思うことは確実なので、読破するに十分な時間があり、かつそれほど期待しない読者にお薦めしたい。

*1:刊行ペースから考えると、一定の判断を下すに足る作品数が揃うのは、2桁を見越さざるを得まい。