不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

ボトルネック/米澤穂信

ボトルネック

ボトルネック

 東尋坊から転落死した友人諏訪ノゾミ(実は好きだった)を偲ぶため、その東尋坊にやって来た嵯峨野リョウだったが、到着早々、リョウは親から、事故により意識不明だった兄が死亡したので帰って来いと連絡される。しかしその刹那、突風により彼はバランスを崩し、落ちた……? やがてリョウは意識を取り戻し、自宅に戻る。ところがそこには、見知らぬ女が家人のような顔をして居座っていた。彼女はこの家の長女サキであると主張する。だがリョウの姉は流産で生まれなかったはずなのだ。両者は会話を重ね、どうやらリョウがパラレルワールドにやって来たとの仮説に行き着く……。
 あまりにも苦く、痛い作品である。居たたまれないという表現などまだ甘い。終盤で、物語の全要素が「痛い」を目指して収斂してゆく。ミステリ、SF、ファンタジー、キャラ、ストーリー展開、プロット、その他諸々の一切合財は、「痛い」に貢献するための駒に過ぎない。各要素はそれ自体だとかなりシンプルであり、『ボトルネック』を非常に読みやすい作品にもしている。だがしかし、それらの配置が実に「痛い」残酷な図形を描いていたと判明する時、物語は主人公に(そして読者に)牙を剥いて襲い掛かるのだ。この作品のレゾンデートルはこの一点にかかるのであり(その代わりこの一点がかなり凄まじい)、各要素を力強く描き出しそれをもって小説の成果とする作品ではない。いわば一点突破型の作品であって、この「痛い」が通じない読者に対する保険がない。これは作品の欠陥ではなく潔さとして高く評価したいが、反面お薦めする場合には人を見ねばならないわけで無念である。楽しめる層が決して狭いとは思わないのだが……。とりあえずファンならば読んで欲しい、米澤穂信の最高傑作の一つである。
 ところで作者は、『ボトルネック』で自らの青春小説の総決算を目論んだと語った。そして出て来た作品がこれというのは、米澤穂信という作家が青春小説をどう捉えているかを考えるうえで(そして読み手個人の実人生においての青春や、読み手個人としての「青春小説」の定義やイメージを検証するうえでも)極めて興味深い。青春小説というのは、本格ミステリ以上に各読者によって定義がバラバラであると思われるので、様々な感想を聞くことはいつも以上に面白い。