不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

ドクター・ブラッドマネー/フィリップ・K・ディック

Wanderer2006-01-05

 1981年、一組の夫婦が全米の歓呼に包まれ、火星への初の植民に赴かんと大気圏をロケットで突破したまさにその時、核戦争が勃発し、人類文明は大打撃を蒙る。七年後、各地に点在するコミュニティーで、人々は、今や周回軌道を回る人工衛星と化したそのロケットから流されるラジオ放送に心の拠り所を見出していた……。
 以上のような設定にもかかわらず、(私の既読範囲でのみ語ればだが)ディックにしては閉塞感が強くない。それよりもむしろノスタルジーが強調される。強迫的な不安、暴力的な絶望よりは、平明な懐旧と静かな諦念、そして温かな希望が支配的である。その佇まいはまるで叙情系SF。そもそも《佇まい》などという表現はディックにはそぐわないという先入観があったわけで、いやはや、このクラスの作家になると抽斗も多いし、当然のことながら十冊程度のイメージでは全体像の把握はできないのだなあと感心。テンションは低い作品だが、だからこそ味わい深い作品でもある。SF的な道具立てが古めなことも相俟って、馥郁たる余情が醸し出されていることも特筆すべきであろう。質感が落ち着いているため、実は結構猥雑な話でありながら静かに読める。まこと美味。こういうの大好きですよ。私はね。