不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

流れよわが涙、と警官は言った/フィリップ・K・ディック

Wanderer2005-12-27

 人気タレントであるはずのタヴァナー。しかしある朝目覚めると、世界の誰もが彼のことを覚えていなかった。恋人にさえ忘れられるタヴァナー。しかも国家のデータベースからも記録が見つからない。このため警察からも完全に不審者扱いされたタヴァナーは、この悪夢から抜け出そうと悪戦苦闘する。一方、追う立場であるバックマン警察本部長は、職務として見せる言動は裏腹に、タヴァナーに不思議と親近感を抱くのであった……。
 キメながら書いたとしか思えない作品。確かにストーリーは上記のとおりなのだが、作者もタヴァナー本人も、また副主人公たるバックマン警察本部長も、タヴァナーがどうなってしまうのか(あるいは彼をどうするつもりなのか)という点には関心が薄い。というか、完全に投げ遣り。ストーリーの平仄の取れた展開も極めて弱々しく、か細い。物語は恒常的にふらついており、ギリギリのところで踏みとどまってはくれるが、今にも破綻しそうになる。
 しかし、この物語は、強く胸に迫る。ここでディックが語るのは紛れもなく《愛》である。現実が過酷なばかりか、その《現実》がふらつきさえする状態であっても、必死に《愛》を求める登場人物、物語、そして何よりもディックの姿! もはや廃人寸前である。壊れてしまっている。求めは足掻きに過ぎず、応えられることは決してない。しかしそれでもなお、『流れよわが涙、と警官は言った』は愛にしがみつくのだ。痛切なまでに愛を望むのだ。大森望の解説どおり、ヴォネガットの諦観はここにはない。あるのは、現実との敗北必至の苦闘であり、にもかかわらず或いはだからこそ素晴らしい《愛》というものへの賛歌なのだ。
 私は告白しなければならないだろう。感動したことを。胸が震えたことを。今更私がゴチャゴチャ言っても仕方ないとは思う。しかしやはり言わせてくれ。俺はこの作品を愛している。ディックを愛している。SFを、小説を、読書を、そして世界を愛している! 傑作である。必読。