不壊の槍は折られましたが、何か?

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ネコソギラジカル(下)/西尾維新

ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)

ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)

 戯言シリーズ最終章。これだけ猫も杓子も読む状況だと、感想書きにくくて仕方ないわけだが、腹を括って対応するしかありません。
 本巻は、全体的に駆け足である。通常であれば主人公の自意識やキャラ描出に更に筆を割いただろうが、最終巻ということで、作者は落とし前を付けることに忙殺されており、各要素の掘り下げが浅い。それを端的に表すのが、本作で初登場の一里塚木の実。これがどうにも影が薄い。確かに色々発言してはくれるが、少々精彩を欠くように思う。存在感、古槍頭巾に負けてないですか。彼女だけではなく、既存キャラも今回は扱いが雑。
 戯言シリーズの登場人物は、記号としてのキャラを体現する一方、物語において実際に描かれる言動によって読者に強い印象を与えてきた。たとえば哀川潤。彼女が本当に《人類最強》という記号どおりかという点について、客観的に認め得る*1証拠は何も示されない。しかし他の登場人物は皆、なぜか彼女が人類最強であることを前提として行動する。このような設定自体を、作者の説明責任放棄であるとして、ゆえにこのシリーズはおかしい変だムカつく死ね馬鹿と言う人が結構いる。暴論ではあるが、確かにわからなくもない。しかし、哀川が客観的に人類最強かどうかは別として、彼女自身がインパクトのある人物であり、読者の印象に残ることも間違いない。このこと自体は貶されるどころかむしろ賞賛されるべきことであり、その勲功は疑いなく西尾維新のものなのである。私は功の部分を採りたい。そもそも、設定面ではなく言動面でインパクトのある登場人物を複数登場させるのは、非常に難しいまたは稀有なことであり、従って彼らの掲げる看板が少々誇大でも、西尾維新がゴミである証左にはならない。無茶苦茶美味い料理店の看板に、《日本一》《世界一》《宇宙一》と掲げられているようなものだ。
 しかしながら、この看板自体は好ましくないこともまた間違いない。従って、問題性の阻却事由が《キャラの活気》でしかない以上、キャラの活度が低下した場合、抑圧されていた問題点が噴出しかねないことも事実。『ネコソギラジカル』に関して言えば、上中下巻一気読みしたのであれば、読者側にも勢いがついているので最終巻での筆致のスキップ度合に目が行くかは微妙だと思う。しかし、各々の間に数ヶ月挟んだ読者を誤魔化すことは、少々難しい。よって下巻単体では、それほど高く評価するわけにはいかない。
 とはいえ、一時代を画した(現時点では、画していると現在形を使っても良いだろう)シリーズの最後として、それなりの落着を見せてくれたのは事実。肝心な部分をあっさりすっ飛ばすところなんか、結構好きですよ。書けないものを無理して書く必要はないし。そもそも、登場人物の人生について《書かなければならないこと》など何も存在しない。ミステリ要素が薄いことなどもちろん何の欠点にもならない。あと、裏表紙のイラストはずるい。作家とイラストレイターの輝かしい共同作業。そんなことを意識したのは、ブギーポップ以来かな。あんまりラノベ読まないからね。
 西尾維新ファンは必読、というよりも放置しても読むだろうし、嫌いな人が無理をして読む必要がないのは全ての小説に言えることだろう。西尾維新未体験な人は、『クビキリサイクル』からどうぞ。なお私にとっては、なかなか楽しんだこともさることながら、このシリーズを通読することは、21世紀初頭に小説ファンとなった若人の趨勢を見る上で参考になるように思えてならず、貴重な体験になった。なお、個人的には、この作家・このシリーズを一概に否定するのは野蛮だと思う。こんなところでよろしいでしょうか。
 それでは、西尾維新にしばしの別れを。

*1:もちろん小説世界で完結する客観性を意味し、リアルな客観性を意味しない。もっとも、《小説世界で完結する客観性》などあり得るのか、いやそもそも人間が認識できる《リアルな客観性》など本当にあり得るのか(特に小説で描かれるような事物に関して)という点について、個人的には強い疑念を抱いているのだが、ここでは深入りしない。