不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

悪党たちは千里を走る/貫井徳郎

悪党たちは千里を走る

悪党たちは千里を走る

 いきなり引用しますが、以下の本作最初の科白をご覧下さい。

 ア、アニキ。なんか、思ったよりもでかい家ッスね。

 このセンス、正直どう思われますか。私は不安しか覚えませんでした。そして誓って言いますが、以降ずっとこんな調子のコメディが続くのです。お馬鹿な兄貴分と輪をかけて更にお馬鹿な弟分、蓮っ葉で美人な姉ちゃん、成金、ヒステリックなご婦人に、豪邸に住んでるのにケチな奴、小生意気なガキ。その他、全ての登場人物が、私の目から見れば《それらしい口調》で《ありがちな行動》、はっきり言わせていただけば異常なほど類型的な言動しかとらず、彼らにそのような言動をとらせる貫井徳郎の発想の貧困さには目を覆わんばかりでした。確かに本作はコメディタッチの作品なので、これでもいいじゃないかと思われる方も多いでしょう。しかしそういう方々は、軽妙と浅薄を勘違いされていないでしょうか? 愉快な笑いと失笑を混同されておられないでしょうか? 様式美とマンネリの区別を付けておられるのでしょうか? そもそもコメディ=安っぽいではないことを理解されておられるのでしょうか?
 同じストーリー、同じキャラクターで書かせた場合、赤川次郎なら遥かに高度に洗練されたコメディを書くでしょうし、奥田英朗ならよりフレッシュネスな活気溢れた話を、戸梶圭太ならよりハチャメチャかつそれ自体で売りに出来るほどの《安さ》を備えてある意味貴重な話を書いてくれたことでしょう。彼らでさえそうなのですから、ましてやトニー・ケンリックであったなら……!!
 とまあ仮定の話はこの程度にしますが、実際彼らのコメディタッチの*1作品には、少なくとも私が読んだ範囲内では活き活きとした登場人物がおり、各々に(一見典型的であっても)結構複雑で独特な個性を具備させているのです。しかし『悪党たちは千里を走る』の登場人物には何もありません。あるのはただただ、《軽くすれば良い》一直線の意図しか見て取れない、悪い意味で類型的な性格選択と、その程度の性格付けしかできない作者の、作家としての浅薄さなのです。コメディというものは作家のセンスを、悲劇惨劇以上に生々しく露呈してしまう表現形態なのです。
 また、ミステリ的な仕掛けも弱く(なぜ犯人が特定できるのかわからない)、こちらの点でも問題ありです。
 貫井徳郎は、小説がうまいとの評判を確立しています。しかし個人的には、未だに信じられません。彼のどこがうまいとおっしゃるでしょうか。ただの過大評価なのではないでしょうか。ベタな登場人物にベタなことしか言わせることができない小説の、どこをどう素晴らしいと見ることができるのでしょうか。そして、取材が精緻というわけでもなく、彼独自の視座・見識が示された例もなく、結局のところ、調子が良いときたまに堅牢なミステリが姿を現すというだけなのです。正直、私が絶賛することのできる作品は『プリズム』だけなのです。
 私のような読者は本当に少数派なのでしょうか。私以外の誰も彼もが、貫井徳郎を素晴らしい作家と思っているのでしょうか。誰か教えてください。私にはどうしても信じられないのです。爪の先ほども理解できないのです。誰か、お願いですから。
 誤解を招かぬよう断っておきますが、『悪党たちは千里を走る』は、二転三転するプロット、高いリーダビリティ、読みやすい文章*2と三拍子揃った作品であり、総合的には綺麗にまとまっています。作者がヒットを放ったことは間違いありません。確実に佳作ではあります。コメディセンスの悪さに目をつぶれば。登場人物の薄っぺらい造形を見なかったことにすれば。しかし私にそんなことはできないのです。精神修養が足りていないのです。作家にもファンにも大変申し訳なく思います。でも、これが、私にとっての《真実》なのです。

*1:10/4追加部分は斜字としました。

*2:読みやすい文章=いい文章であるとは限らない