不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

ディアスポラ/グレッグ・イーガン

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

 人類の大多数が肉体を捨て、ネットに転移した30世紀。物語は、そのネット上で《人間》が生まれる描写から始まる。一番厳しいのはここ。圧倒的に意味不明であり、単語レベルからしてわけがわからない。自分が根っからの文系人間であることを、心の底から無念に思う瞬間である。
 解説どおり、この誕生シーンよりも難解な箇所は以降出て来ないが、それでもなお、『ディアスポラ』は『宇宙消失』『順列都市』『万物理論』を優に越える難物であり続ける。文章は数学的・科学的・物理学的な修辞や小道具に溢れており、意味するところを押えるだけでも青息吐息だ。しかし、物語に付いて行けなくなるかというと、そこまでは行かない。ストーリーはしっかり追える*1し、作者の意図も必要十分な程度には理解可能だ。
 たとえば瀬名秀明の『デカルトの密室』の場合、ペダントリーと主要主題が一致しており、ペダントリーを理解しないとテーマの理解は覚束なかった。だが『ディアスポラ』は違う。もちろんペダントリーを理解すればテーマをよりよく理解できよう。しかし根本的には、『ディアスポラ』のテーマはより根源的な何かであり、ペダントリーには依拠しておらず、理系的センスを持たずとも作者の本当に書きたかったことを感得することはできる。論より証拠、途中経過がわけわかんなくとも、私はなおイーガンの描く壮大なビジョンを受け止めることができたし、ラストでは感動的な気分さえ味わったのである。そして矛盾かもしれないが、私はだからこそあの理系的で理解できなかったペダントリーの数々を、心から愛しく想うのである。
 とりあえず、今年のSFは『ディアスポラ』抜きでは語れない。語ってはならない。SFファンならば必読である。

*1:もっともこれは、進行が非常にシンプル、ということにもよる。